多くの場合、動物の寿命は人間よりも短い。だが私は動物を飼ったことがない。だから動物が老いることを私は具体的な経験としては知らない。それに、どうして人間がこんなにも脆い体でありながら生物の中で最長とも言えるような100歳近くもの寿命を持っているのは不思議といえば不思議である。

 ところで人も私のような歳になってみると、老いることは死よりも恐怖であるような気がしないではない。昔の自分の写真を見ることがある。テレビや映画で久し振りにかつてのスターの現在や古い映画の再放送などを見る機会がある。自分にしろ、他人にしろ、人は必ず老いていく。そしてその事実は自他共に「老いの姿」と言う目に見える形で突きつけられる。

 そしてそうした事実は多くの場合不意に訪れる。毎日見ている自分の顔は昨日と少しも変わらないから、その限りにおいて決して老いることはない。それは他人も同じである。頻繁に会っている知人は、たとえ10年の昔を振り返える話に興じることがあったとしても、互いの老いを感じることは少ない。仮に老いが話題になったとしてもである。

 かつて読んだ本の中にこんな文章があった。

 「病気したおかげて、
 人はずっと
 生きているわけじゃないっていうことに
 気がついたっていうか、
 それだったら、やっぱり、
 それまで
 どれくらいハッピーでいられるかが
 勝負だろうなっていう気が
 今はする

 急性骨髄性白血病で23歳で夭折した清水真帆の言葉 「種まく子供たち」(ポプラ社)から

 先週再放送で見たNHKテレビの「知るを楽しむ」は、澤地久枝へのインタビューを中心に構成され、その内のテーマの一つが「異形の死」であった。彼女は「死」は本来当たり前のものであり、そのことを当たり前のものとして回りの者が理解できることこそが「本来の死」なのではないかと問いかける。もちろんその話しは戦争や原爆による多くの「本来でない死」へとつながっていくのではあるけれど、そうした納得できる死から外れた死が私たちの回りにいかに多いことかを彼女は嘆く。

 それを「異形の死」と呼ぶのが妥当かどうかはとも角として、私たちの回りには納得のできない死や理不尽な死が多いことも事実である。もちろん死はどんな場合も理不尽なのではないかと問われれば、その言葉に返すことはできないけれど、私自身こうして70歳を目の前にしてみると、老いることはとっても贅沢な味わいになっているのではないかと思えるようになる。

 いつお迎えが来てもいいと思うほど達観できているわけではないけれど、移り変わる景色を楽しみながら事務所へと歩き、ほんの少しの仕事と気ままな時間つぶしとこうしたエッセイの発表などのゆとりを持てることは、他に代えられないほどの贅沢だと思うことがある。確かに若い頃に比べて飛んだり跳ねたりは難しくなってきたし、クラシックも一時間を超えるような大曲への挑戦はいささか億劫になってきている。読書も同様で、最近ゲーテのファウストやダンテの神曲などの大作への挑戦が挫折に終わってしまったことは前に書いたとおりである(別稿「多分?、恐らく?二度目の挫折」、「ダンテ、やっぱり」参照)。

 だが時にうたた寝を含み、インスタントにもせよコーヒーの香りに囲まれたこの空間と時間を楽しめる余禄は、老いてきたからこその至福ではないかと思えてくる。
 近くの区民センターから脈絡もなく気ままに本を借りてくる。最近はインターネットで全市規模での予約ができるようになって、申し込んだ本が区民センターに到着すればメールで知らせてくれるようになってからはますますその脈絡のなさに拍車がかかってきたようである。区民センターは事務所から歩いて数分だから、まさに図書の出前のような気楽さである。そしてもう少し15分ほど歩くつもりになれば、山の手図書館ではクラシックのCDも貸してくれる。

 もちろんそうした楽しみの背景には、「楽しむことのできる自分」と言う基礎があるからだということにはなるだろう。私がこの事務所で書や絵画に向かうことはないし、もちろん作曲や彫刻に挑戦することだって皆無である。それはつまり私自身の中にそうした様々に対する素養がないことの証左であり、この事務所の中での楽しみといえども結局は自分でできること、自分がやって嬉しいと感ずることしかやっていないということでもある。そうした意味では私がこれまで生きてきた中で自分で楽しめる何かを僅かにもしろ積み重ねてきたことが、自己満足にもしろ今この場に花開いてきているといえるのだろう。

 ここはひとりの事務所である。人事管理もなければ他人との関わりもない。かつての仲間に、マイカーでも一人で乗るのは寂しくて隣に話し相手がいないと運転する気になれないという人がいた。そういう人にとってみれば、このひとりの事務所は孤独の最たるものであって毎日を過ごすことは耐えられない時間と空間の連続かも知れないけれど、一度その気ままさを味わってみるととても抜け出せなくなってくる。

 老いることはそれだけ人生を生きてきたことである。読んだ端から忘れていく読書であり、覚えるより忘れることの多い我が身ではあるけれど、こうした雑文を作りながら、少し考えが世間の常識から外れていっている場面が生じているかも知れないと思いつつも、年をとることも悪くないもんだと小さな部屋の空気にゆったりとひたっている。それがたとえ孤高と呼ばれようとも、独善と固陋と頑迷の只中にあるわがままであろうともである。

 長い過去であった。過ぎ去った時間を「あっと言う間」という人もいるけれど、しみじみと味わってみるとそれなり歯ごたえのある思い出が重なってくる。玉石混交の人生だったし、どっちが多かっただろうかと自問すれば「玉」の少なかった思いが残るけれど、こうして少しずつ味わったみるとこれまでに経験してきた様々が玉石ともどもあたかも極上の吟醸酒のように芳醇な味わいをもたらしてくれる。

 今更文豪に肩を並べるつもりなどさらさらないけれど、最近読んだ本の一節である。

 「・・名声富貴は浮雲よりもはかなきものなる事を身にしみじと思ひ知りたるに過ぎず。花下一杯の酒に陶然として駄句の一ツも吟ずる余裕あらば是人間の世の至楽なるべし」(永井荷風の日記、断腸亭日乗、昭和15年12月31日より)。

 だから老いるというのはとてつもない贅沢なのである。



                                     2008.11.6    佐々木利夫


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老いることの贅沢