今更改めて言い出すほどのことではないのだが、歩くことには何かしら新しい発見がある。道々のライラックのことも書いた(別稿「はしどいのある風景」参照)。その花が終わってアカシヤについても書いた(別稿「アカシヤのある川辺」参照)。そのアカシヤも茶褐色に変化した花を地上に撒き散らす季節になった。そんなとき、歩いていてふと白い綿毛が目の前を漂っていくのに気づいた。タンポポだろうか、でもタンポポならその季節は既に終わったはずなのだが・・・。

 綿毛は一つだけだったので特に気に留めることもなくそのまま歩き続ける。いつもの琴似発寒川に近づいた頃、再び綿毛が舞っていることに気づいた。今度は一つ二つではない。見上げると空中にいくつも漂っているのである。

 例年ならば7月に入ってから気づくはずなのだが、きっとこれはポプラの綿毛ではないかと思いつく。そう言えば琴似発寒川の川岸には数本のポブラの並木があったはずである。いつもの通勤経路からは少し脇道にそれることになるけれど、確かめるためには河畔の道へとルートを少し変えなければなるまい。
 まさにポプラであった。並木の根元には雪でも降り積もったように綿毛が敷き詰められている。踏み歩く靴底を通してそのふんわりとした感触がまっすぐに伝わってくるようである。

 飛んでいる綿毛をつかもうとするが、見るからに軽やかにふんわりと風に乗っている直径1センチほどの戯れは、するりと指の隙間から抜けていく。空高く舞い上がる綿毛は青空に同化してその姿を隠してしまうけれど、川面を眺めるとまるで小さな羽虫のように漂っているのが分かる。川面や緑の川岸を背景に、小さな綿毛は数え切れないほど飛び交っている。

 ふと独特の匂いに気づく。芳香と言い切るには少し躊躇するけれど、この香りはまさにこの時期のポプラからの匂いだと確信する。ポプラはどちらかというと巨木であり、花も実も地上遥かだから肉眼では見えない。だからその香りがどこから発せられているのかを確かめることも難しい。
 だが我が家の近くにある数本の並木道を通ったときも、JR沿いの市営住宅脇に生えている二本のポプラの下を通ったときにも同じような香りが漂ってきていたし、この時期以外にこんな香りに気づくことはないから、きっとポプラの綿毛を吐き出す季節の香りだろうと勝手に思い込むことにする。

 ポプラは普段はそれほど目立つ木ではないし、私にそれほどの知識があるわけでもない。せいぜいが雌雄異株、つまり雄の木と雌の木がそれぞれ独立しているくらいのそんな半端な知識である。そして雄の木は枝を余り広げることなくほっそりとそびえ、雌の木はどちらかというと枝を横に茂らせてどっしりと構えているから、見分けるのはそんなに難しくはない。

 そうは言ってもこの木は特別に見事な花を咲かせるわけではないし、秋の紅葉や落葉が見事なわけでも、銀杏やサクランボのような実をつけるわけでもない。だから普段歩いていてここにポプラがあると気づくことは滅多にないと言っていい。
 もっともそれは、私が少しうつむき加減に地面を眺めるようにしてセコセコと足早に歩いているからなのかも知れない。もう少し背筋ピンと延ばして青空に顔を向けて歩いていれば、それなりポプラの存在に気づく機会も多いことだろう。

 そうした私に抗議でもするように、綿毛はうるさいほどにも漂い始めている。しかもそれをつかもうとすると、私の動きを予感でもしているかのようにするりと指の間から逃げていってしまう。
 綿毛は種子を遠くに運ぶ手段、つまりポプラは風媒花なのだろう。よく見るとほんの数ミリの細い種子が綿毛を透かして見ることができる。こんなか細く頼りなげな種が本当にそびえ立つ大木に育つのだろうか、ふと、命のしたたかさを感じさせる風景である。

 ところでこの季節の綿毛を吐き出すポプラを眺めていると、私はふとゴッホの描いた糸杉の絵を思い出すのである。ポプラと糸杉とはなんの関係もない。似ているかと言われれば似てもいないだろう。第一私は糸杉そのものを見たことすらないのだから・・・。それにゴッホの描く糸杉に秘められたメッセージは、こうして私の見ている穏やかなポプラの情景とはまるで意味が違う。
 ゴッホはいくつか糸杉のある風景を描いているが、中でも有名なのは「星月夜」だろう。夜、満天の星、そして月が狂ったように渦まく光を闇ににじませ、その光をつかもうとでもするかのように一本の糸杉が黒くうねらせながら枝先を中空へと延ばしていく。糸杉はまるで黒い炎で夜空を燃やし尽くそうと執心しているかのようである。

 あたかもゴッホの狂気を予感させるかのような「星月夜」は、どうしたってこの初夏の青空に綿毛を吐き出しているポプラの風景とはまるで異質である。
 それにもかかわらず私は青空に映えるポプラの風景に「星月夜」を重ねてしまうのである。ポブラが綿毛を吐き出している姿そのものを直接目にすることはないけれど、枝先から天をめざして無限ともいえる綿毛の放出を繰り返す姿に、ゴッホの描くどこかひたすらとも思える糸杉の夜空への飽くなき執心の意思を重ねてしまうのである。

 もちろんこれは私だけの勝手な想像である。空はあくまでも青く、屹立するポプラは生き生きと命の承継を産み続けている。それは星月夜の陰鬱さとはまるで違っているけれど、その青空に伸びていくポプラの姿はやっぱりどこか天をつかもうとしている糸杉の姿に似ていると私には思えてしまうのである。

 川岸を歩いてやがて橋、ここを過ぎて間もなく事務所である。橋を渡って綿毛もここまでは飛んでこない。いつもの日常が始まろうとしている。「星月夜」への思いも束の間の空想の中で霧散してしまうほどの記憶の片鱗である。数日を経て私の中から糸杉のイメージなど消えてしまうことだろう。来年のこの時期まで、もしかしたら私はゴッホのことすら思い出すことはないのかも知れない。
 それでも私の中ではゴッホの糸杉とポプラはどこかつながったまま、これからも繰り返される札幌の初夏の風景に重ねていくのだろう。



                          2008.6.24    佐々木利夫

 雨上がりのせいだろうか、それとも世継ぎの季節は終わってしまったのだろうか。今朝の川面に綿毛の姿はなく、いつものせせらぎが透明な水音を伝えるばかりであった(6.30)。


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ポプラ幻想