がらにもなく「昔はこれでも数学に興味をもっていたんだ」みたいなことをここへ書いたのはつい4月のことであった(別稿、「1-0.4=?」、参照)。その文中で私が現在も持っている数学関係の書籍を10数冊羅列したのだが、その中の一行に「速解数学V、佐藤 忠、三省堂」があった。

 ところで先日、その本が懐かしいと言う見知らぬ人からのメールを受け取った。なんでもその書物の著者が彼の恩師であり、この本を手に入れたくてネットで検索しているうちに私のエッセイを見つけたのだそうである。ただ、彼のメールによるとこの書物の著者は岡東という名であり、その人が恩師だというのである。早速自宅に戻ってからその本を引っ張り出して確かめると、なるほど著者は「佐藤 忠、岡東弥彦、共著」となっていた。

 数学関係の私の蔵書を列記したのは、単に「俺はこんなに数学関係の本を持っているんだぞ」みたいなややペタ゜ンティックな気持ちがあったからだと思うし、個々の書籍の中味についてどうのこうのと言いたかったわけではない。それでもこうした列記した中から一冊だけが他人に目に触れることになってしまったこともあって、いつ、どんな気持ちでこの本を手にしたのだろうかが気になった。

 こんなことを書くとまたもや自画自賛の自惚れになってしまいそうだが、この本の発行がなんと昭和44年11月10日になっていることに自分でも驚いたのである。私は昭和33年に高校を卒業してそのまま国家公務員たる税務の職場へ就職した。我が家だけが特別貧しかったわけではなく、ほとんどの同窓生が高卒のままで就職した時代だったから、大学進学など最初から頭になかったと言ってもいい。だから学校生活、特に三年生はもっぱら商工会議所が実施している簿記だとかそろばんなどの検定合格を目指すのが卒業までの大切な仕事だった。

 つまり私は大学受験の意思はおろか、そのための受験勉強をすることすら意識になかったといっていい。その気持ちは就職してからも同様であり、頭のどこかに「大学に行きたい」みたいな気持ちの欠片が皆無ではなかったとは思うけれど(別稿、「私のくぐった赤門」参照)、それは夢のような現実離れした思いでしかなかった。

 本を買ったときは、大体裏表紙の余白に「いつ、どこで」をメモすることが多いのだが、この本にはなんの表示もないから何歳の時に手に入れたのかは不明である。ただ発行年よりは後であることは間違いがないのだから、税務署に入った昭和33年4月から少なくとも11年半以上は経過してから手に入れたことになる。
 すでに30歳になろうとしているか場合によっては超えている年齢であり、結婚し子供も二人生まれている。酒も麻雀もそこそこの、ごく当たり前の人生を送っていたから、まさかに職を投げ打って大学進学に挑戦しようなどと考えているわけなどあり得ない。

 ところでこの本は受験勉強のための参考書であり、内容は数V、つまり微分、積分の証明問題と解法を列記したものだから当然に大学受験を目指したものである。本人に大学受験の意思などまるでないにもかかわらず現にこうして受験のための参考書を購入した事実がある。しかも微積分などという一般的な社会人にとっては恐らく無縁と思われるような領域の参考書がである。

 この本が私の書棚にあるということは、きっと私が数学の、それも微積分の領域に興味を持っていて、僅かにもしろ勉強しようと思ったことの証拠に違いはない。今から40年近くも昔のことだから、どんな動機でこの本を手に入れたのかはまるで記憶がない。しかし内容から言って気まぐれや書名にほだされて買うような本ではないだろう。高校三年生になると生徒は進学コースと就職コース、それにその中間コースにクラス分けされた。私は迷うことなく就職コースを選んだから、そのときの数学の授業に微積分などの分野はなかったはずである。にもかかわらず卒業10数年を経て、私は確かに微積分に挑戦しようと思ったのである。

 どんな思いがそこにあったのだろうか。職場に、仕事に、微積分などまるで無関係である。桁数の多寡はともかく、基本的な加減乗除の能力だけで仕事は十分にこなせるはずである。
 それが例えば「零の発見」だとか「無限の話し」などのように、一つの知識なり物語としての数学に興味を持ち、そうした関係の本を手に入れたと言うのなら分からないではない。だがしかし、この本は微積分の証明問題というか大学受験ための問題と回答、そして考え方を示したものであり、物語としての面白さなどは片鱗もないのである。

 にもかかわらず私はこの本を買った。そして読んだ。あんまり読み込んだような気配は感じられないけれど、それでもところどころ数式に鉛筆で丸が囲まれており、その丸からページの余白に線を延ばして「?」のマークをつけてある箇所がいくつかある。きっとそれは丸で囲んだ部分の意味が「理解できない」ことの表示なのであろう。ならばそうした表示のない問題と解説と答えとは、「理解できた」のだろうか。どうにもそうは思えないし、今となってはそのクエスチョンマークをつけたことの意味すら理解できない私になっているけれど、それでも私はこの本に少なくとも挑戦しようと思い、いくばくかの投資をしたことは事実なのである。

 この本の著者が恩師ですとメールをくれた彼は、その恩師から「数Vまでやってください。美しいですよ」と言われたとの思いを私に伝えてくれた。その言葉を聞いて私は、始めて数学を「美しい」と表現する人のいることに気づいたのである。少なくとも私の持っている言葉の中に「数学は美しい」との表現はなかった。楽しいとか素晴らしいとか、場合によっては感動的だくらいの意識はあったかも知れないが、彼からのメールによって私は「数学は美しい」とする新しい語彙を身につけたのである。そしてこの本の共著者であるもう一人の名前を引用から除外してしまったことにいささかの罪悪感を覚え、私の前掲のエッセイに密かに共著者として「岡東弥彦」の名を補正追記したのである。

 ところでこの本は「関数の極限を求める型」の説明から始まり、冒頭に「0/0(ゼロ割るゼロ)、∞/∞、0×∞は、形を変えると全部0/0とすることができる」との記載、そして∞−∞、∞のゼロ乗の考え方へと進んでいく。ゼロも無限もここで使われているような意味での理解など、私にはまるでついていけない。しかしそれでも、その記号には途方もないほどの夢が隠されていること、そして私が強くその夢に興味を持っていたことくらいは、先の別稿に列記した私の蔵書内容からも理解してもらえるだろう。だからもしかしたら私は、この本のこの一行があったからこそ、この本を手に入れることを決めたのかも知れない。

 そしてそして、そうした夢の欠片を感じることができることの中に、もしかしたら「美しさ」を感ずることへの微かにもしろ予感が含まれているのかも知れない。だとすれば私の身の裡にも僅かにもしろ数学の美しさを感ずることの出来る余地が、今でもまだ残されているのかも知れない。きっときっと、多分その余地は決して「ゼロ」ではない・・・?。



                                     2009.6.14    佐々木利夫


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微分?、積分?