先日新聞に載った読者の投書の中に、こんなのがあった。

 「 『先生、1から0.4は引けるのですか』という質問があった。一瞬『え!』と思った。出来ない人は正直に手を挙げて、と言うと5人が挙がった。5年前、私が現在勤める高校に来た年のことだ」(朝日、'09.4.12)。
 私はこれを読んで、この高校生の学力のなさを嘆くことよりもこの生徒たちが恐らく生涯にわたって算数や数学の楽しさを知ることがないであろうことに、どこかとても悲しくなったのである。

 最近「数学を愛した人たち」(吉永良正、東京出版)を読んだ。特に上記の投書に触発されたわけではないが、もともと数学が好きだったこともあり、どんなきっかけだったかよく覚えていないけれど、数学者ガロアの生い立ちを知りたいと思って図書館の蔵書検索に触れてみたのがこの本との出会いであった。ギリシャ時代から始まる数学者の足取りを紹介するこの本は、歴史に残る著名人たちの生い立ちや彼等の成果を中心に書かれている。ただタイトルからしてそれらの人々の功績を数式抜きで紹介するのは困難だろうから、かなりの部分が私の理解を超えた内容になっていることは否めない。

 私が僅かにもしろ数学に興味をもっていたことはこれまでも何度かここへ書いたことがある(別稿「個性のない方程式」、「無限」、「円周率への旅」参照)。またそうした数学の面白さに触れた小説もけっこう興味深かった記憶がある(「博士の愛した数式」、小川洋子著、新潮文庫など)。
 もっとも数学に興味を持っていたと言ったところで、最近における私の実力はせいぜいが中学生向けの学力テストや高校入試程度のものであり、問題によってはそのレベルさえ危うくなっていることは自身でも認めざるを得ないところにまで来ている。それにつけても入門程度のレベルではあっただろうけれど、かつては微分や積分にまで多少とも届いていたとの思いからすると、こうした現状にはいささか愕然とせざるを得ない。

 それでも数学への興味と言うのは、偏微分だとかトポロジーなどと言った高等数学への興味を示すものばかりではない。例えば素数(1と自身以外に約数を持たない自然数)だとか無理数(循環しないで無限に続く数、つまり分数で表せない数。√2、π、e〜自然対数の底など)、更にはたとえそれがギリシャ時代を超えない程度の知識にしか過ぎないとしても、例えば二つの異なる数の最大公約数を求めるためのユークリッドの互助法(大きい数を小さい数で割り、小さい数を更にその余りで割っていって、余りがゼロになればその時の割った数が最大公約数になる)など、数学をめぐる身近な問題は数多くある。

   
      書           名      著   者   名  発  行  所
定理公式証明辞典 笹部貞一郎 聖文社
ゼロから無限へ 数論の世界を訪ねて コンスタンス・レイド 講談社
無限と連続 遠山 啓 岩波新書
塵劫記 吉田光由(大矢真一 校注) 岩波文庫
速解数学V 佐藤 忠・岡東弥彦 共著 三省堂
数学のあたま 高野一夫 講談社
推計学のすすめ 佐藤 信 講談社
数のユーモア 吉岡修一郎 学生社新書
零の発見 吉田洋一 岩波新書
数学入門 遠山 啓 岩波新書
数学再入門 林 周二 中公新書
新しい数学 矢野健太郎 岩波新書
微分方程式の解き方 金田数正 内田老鶴圃新社
微分方程式入門 北村泰一 他 コロナ社
線形計画法 平本 巌 培風館
数学遊び歩き レイモンド・アンダーソン 柏揚社
数学概論 中川 元 他 コロナ社

 これは私の書棚の一角を占めている数学関連の蔵書をざっと探してみた一覧である。書名を見るとかつて熱心に挑んだ記憶が甦ってくるけれど、恐らく今読んだところでまるで理解できないであろうことは試みにパラパラとページをめくってみたことからでも実感できる。もちろん手に入れた当初から理解できなかったのではないかと問われても、反論するすべの持ち合わせはまるでないのではあるけれど・・・。

 ただ「塵劫記」などが世人にもてはやされた背景には、数学を人生の楽しみとしていた愛好家の多さを示していると言われているし、そのほかにも江戸時代から人の集まる神社仏閣などに掲げられていた絵馬のなかには、「私はこんな問題を自分で考え出し、こんなふうに回答を求めました」みたいな数学問題を発表した「算額」がそれほど珍しくなく発見されていることなどもこうした考えを裏付けていると言えよう。

 「万物は数である」と言ったのはピタゴラスだそうだから、数学好きを特定の民族固有のものとして捉えるのは傲慢に過ぎるとは思うけれど、それでも日本にも和算と呼ぶ独自の文化があったし、独自の力で円周率を小数以下11位まで到達した関孝和や上記の塵劫記や算額などの歴史に触れるにつけ、日本人の数学好きは民族固有の力として文化にまで高められたものになっているのではないかと思う。
 つまり、数学は決して数学者と呼ばれる特異集団固有の閉鎖された世界のものではなく、一般の数学愛好家も含めたもっと開かれた世界を持っているのではないかと思うのである。

 もちろん現代の数学はまさに象牙の塔にまでなっているのかも知れない。昨年だっただろうか、NHKスペシャルは「100年の難問はなぜ解けたのか 〜天才数学者失踪の謎〜」と題してこの100年間誰にも解くことのできなかった「ポアンカレ予想」を巡る話題を放映していた。この難問を証明したロシアのグリゴリ・ベレリマン博士は2006年、ノーベル賞を凌ぐと言われるほどの権威を持つとされる数学の最高賞フィールズ賞の受賞を拒否し、しかもそのまま失踪したのである。
 私にはこの「ポアンカレ予想」の問題について、NHKの懇切な解説にもかかわらず、その証明内容はおろか問題提起の意味すらも理解することはできなかった。ただ、それにもかかわらずこの難問を巡る世界中の数学者の人生を賭けたかのような挑戦と挫折と混乱、そしてベレリマンに襲いかかった人格崩壊とも言えるような現象などは、まさに現代の数学が庶民から離れていってることをも示しているかのように思えた。

 それは現在の数学が恐らく愛好家の域を遥かに超えた、まさに素人には手の届かない孤高・孤立の存在になっていることの証左なのかも知れないけれど、それでも例えば素数や完全数や円周率や三角形の内角の和がニ直角であることの証明などなど、身近に数を楽しむことどもは山のように存在しており、そうした中にも人生を豊かにしてくれる様々が含まれているのではないかと思うのである。

 例えばピタゴラスの定理だって、証明そのものは既に2500年以上も前に終わっている。それでも今の中学生や高校生が、たとえ先生からの指導によるものであったとしても自分の手でその軌跡をなぞり、そして「あっ、分かった」と叫ぶことができたとしたら、ピタゴラスの定理は悠久の時を超えて未だに数学の感動を伝える力を持っていると思うのである。

 もちろん数学だけが人生の彩りになるわけではない。音楽にだって絵画や彫刻やスポーツにだって、恐らく人間が考えつくであろうあらゆる場面に、人生を豊かにする要素は含まれていることだろう。だからそうした中から数学の楽しさのみを取り上げて、こうした理屈を展開することが偏見であることはむろん承知している。それでも、「1から0.4が引けるのですか」との高校生の質問からは、数学の持つ楽しみみたいな要素がまるで消えてしまっているように思えてそのことが悔しくてならないのである。

 自分の能力が既に届かなくなってしまっていることへの弁解じみた気持ちのしないではないけれど、少年や少女と呼ばれるような若者に、受験や期末テスト以外にも夢見ることのできる数学の世界が今でもちゃんと存在していることを、どこか知って欲しいと私は密かに願っているのである。



                                     2009.4.30    佐々木利夫


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