原爆の被爆者に対する救済法ができて、認定患者には治療費や生活困窮者には生活費が支給されることになった。その一方で、国が被爆者であることの認定範囲を狭く解釈しすぎているとして、全国でその認定を求める訴訟が起きている。

 最近東京高裁での判決は、国の主張を退けて被爆者の範囲を拡大するものであった。認定を求めている原告団はこれまでの裁判のすべてで勝訴したこともあって、「勝った、勝った、18連勝」などと大騒ぎしている。勝訴にいたるまでにはその前提として「被爆者ではない」とされた長い期間があったことは明らかなのだから、裁判結果を喜ぶ気持ちに水を注そうとは思わない。

 しかし、裁判でも被爆者として認定されなかった者までもが、本人のみならず原告団や認定を受けた者までこぞって「認定せよ」と主張する態度にはどこか違和感が残る。

 被爆者認定については、こうした特別に認定することの疑問を中心に昨年発表しているが(別稿「被爆者認定」参照)、ここでは少し視点を変えてこうした費用を支払う立場から考えてみたいと思う。

 被爆者救済法によりその費用を支出するのは国である。また、被爆者認定の訴訟でも厚生労働省が当事者窓口となって動いているけれど、これとてもつまるところ「被告、国」である。つまり金を出すのは国であり、その原資は「我々の」と言っては少しおこがましいかも知れないけれど、国民の納めた税金である。

 原爆症として認定せよとして訴訟を起こした原告は、「勝った勝った」と大喜びだが、そうした場合に支払いの全部が国、つまり国民であることを思うとき、私たち国民がどこかそれが税金で賄われていることに気づいていないのではないかとの思いがしてならないのてある。

 我々はどこかで国の存在を自分とはまるで別な組織として見過ぎているのではないだろうか。もちろんそれはそれで正しい考え方ではあるのだが、同時に国の構成員は国民の全部であり、国の利害はそのまま自分をも含めた国民ひとりひとりの利害でもあると言う事実をともすれば忘れがちであるような気がする。

 原爆症(原子爆弾症)とは@原爆の熱戦による創傷、熱傷、A放射線被爆による急性障害、B放射線被爆による晩発生障害(ガン、白血病、白内障、ケロイドなど)を指す。国(厚生労働省)がある患者を原爆症として認定すれば「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」によって医療特別手当が支給される。

 最近敗訴が続いているとされる被爆者認定の問題は、この医療特別手当を巡るものであるが、前段の原爆症の認定基準からも分かるようにこの手当てが支給されるのは、その人が原爆症であることが要件になっている。
 つまり、法律は原爆被害者の中の原爆症である者のみに対して医療特別手当てを支給することを定めているのである。

 ところが勝訴に湧く原告団は、いつの間にか手当ての支給対象を「被爆者全員」にまで拡大するようになってきている。つまり手当ての要件である「放射線起因性」の要件をいつの間にか雲散霧消させようとしているかのような動きが見られるのはどこか残念な気がする。

 原爆投下から既に60数年を経ていることから、被爆者の高齢化は避けられない現状にある。ただそうした「お年寄りが苦しんでいる」ことを前面に掲げ、弱者救済を旗印とするような主張には、少なくとも法治国家として法律の要件を守るべき国民からの要求としては少し外れているのではないだろうか。

 だから私は、国(厚労省)が原爆症の認定に当たっては、法的責務として厳格に解釈すべきだと思っているのである。陳情や座り込みなど、権力には阿りや圧力の群がることが多いけれど、そうした力に迎合するのは国民に対する裏切りである。たとえその要求が悲惨で同情すべき者からのものであろうとも、法の範囲を超えてそうした力に妥協することは決して許されないのだと思うのである。それこそが国権の最高機関たる国会が定めた法律を、適正に執行しなければならない行政の責務だと思うからである。

 国や行政が独自に金を持っているわけではない。支払いはすべて国民からのものである。国民の納める税金を「血税」と呼ぶのは誤りだけれど(別稿「血税」参照)、「すべての被爆者に」であるとか、「原爆症を主張するすべての者に」などの要求に応じて、原爆症の認定に弾力性を持たせるなどの妥協をしてはいけないと思うのである。
 法の定める特別手当の支給対象となるのは被爆者なのではなく、放射線に起因した原爆症に罹患している被爆者だからである。法律の改正によって対象者を拡大していくならまだしも、圧力などによって解釈を拡大していくことは法治国家たることへの放棄ではないかと思うのである。

 そうした要求をする者は、どこかで「国は国民と無関係な金を持っている」との思いが、そしてそれに妥協しようとする行政には、「どうせ自分の懐から出す金じゃないんだから」みたいな思いが重なっているような気がしてならないのである。

 裁判についても同様である。例えば本件で国が被告となっているということは、国民そのものが被告であることを示しているのである。だから国は面子やいいかげんな気持ちで妥協してはいけないのである。国の責任が明らかになったとか、上告理由がないなど、敗訴したことが誰の目から見ても間違いがないと思われるほど明らかな場合などは別にして、きちんと最高裁まで闘うべきが国民から適正な法の執行を附託された行政の、怠ってはいけない責務だと思うのである。決して原告などからの「控訴断念要求」などに臆してはならないと思うのである。

 今回のこの勝訴判決に対して国は控訴したけれど、それに対してNHKテレビは「国は争う姿勢を崩さず・・・」と報じていた(まるごとニュース北海道、7.10/18:10)。そうした表現は、国の控訴と言う行為が被爆者に対する弱いものいじめになっているかのような印象を与える。ニュースである。報道である。対立する二者があるなら、国が誰の立場で、そしてどんな意味で控訴や上訴をするのかについてもきちんと説明してもらいたかった。

 例えば国がやるべきことを怠ったことにより支払う金額は、単にそれが国民の血税だという意味だけでなく、法的に支払わなくてもいい「無駄な支出」になるのであり、その被害者は同時に国民と言うことになるからである。



                                     2009.7.11    佐々木利夫


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被爆者認定と行政