被爆者認定と司法をめぐる話題については、前にもここへ書いたことがある(別稿「被爆者認定と行政」、「被爆者認定」参照)。ところで先日8月6日、広島原爆投下を契機とした行事に歩調を合わせるように(事実、合わせたものだろう)麻生総理大臣と被爆者認定訴訟団とである合意がなされた。

 それは簡単に言えば「被爆者認定要求をしている原告との全面解決」である。そしてその内容は「全員救済」となった。これまで19回にも及ぶ国に対する被爆者認定の訴訟が、そのことごとくで国が敗訴し控訴中であることを知らないではない。

 だが19回連続敗訴と言っても、原告全員が例外なく勝訴したわけではない。裁判所は現行法の被爆者認定基準が厳格すぎるとしているが、国もそのことに気づきその許容範囲を拡大した。だがそれでもなお被爆者として認定することはできないと裁判所が認定した原告も僅かではあるが存在しているし、まだ一審そのものが提訴中で判決にまで至っていない事件も存在しているのである。

 被爆者認定を求める訴訟は、前提として国が被爆者として認めなかった者が原告である。そして少なくとも一審の段階で見る限り勝訴した者、敗訴した者、まだ裁判所の判断がされていない者の三つに分類されるのである。

 先に掲げた私のエッセイは、国が原告を被爆者として認定しなかったのは彼等が被爆者としての法的要件を欠いていると判断したからであることを書いた。つまり国権の最高機関たる国会が国民の意思として制定した法律要件に彼等が当てはまらないと考えたということである。そうした判断がどんな場合にも正しいとは限らない。だからこそ行政に対しても司法は適用されるのである。
 さて、行政が被爆者でないと認定したのは、行政の身勝手な判断によるものでない。原告のことごとくを国民の定めた法律の要件に該当しないと判断したからである。だから訴訟を提起され被告として法廷に立つということは、国民が被告になっていることであり国はその代理人になって国民の意思を法廷で主張しなければならないということである。

 だとすればなぜそうした立場を覆すのかについてのきちんとした説明が国から国民に対してなされるべきである。確かに多くの原告について国は敗訴を続けている。だが国は控訴中のはずである。

 ところが今回の全面解決の内容は単に控訴を取り下げると言うだけではない。それは訴訟提起している一審継続中の全員を判決を待たずに被爆者として認定するとの合意であり、しかも国が一審で勝訴した原告をも別な形にしろ基金を設けて救済するとの合意も含まれているのである。

 私はこれまでの認定基準を敗訴を契機として見直そうとするような考えを否定したいというのではない。「過ちを改むるに憚るなかれ」は、たとえ国会と言う国民によって制定された法律にだって当たり前に適用される考えだと思うからである。だが、日本は法治国家である。法律の適用は政治家や行政の勝手な判断で変えることは決して許されないのではないかと思うのである。

 もし、総理大臣や厚労大臣の思惑でその解釈が変更されたのだとするなら、それは誤りである。法律を私物化した彼等の傲慢である。
 私は頑なに過ぎるかも知れないけれど「悪法もまた法なり」とする考えは、法治国家としては守られるべき基本ではないかと思うのである。

 いままで国が「原子爆弾被爆者に関する法律」を制定し、その該当するかしないかの要件を専門家を含む委員会で審議してきたのは、国民からの付託に応えるためである。だから被爆者として認定しなかったというその事実は、仮に裁判で争われた結果誤りだと認定されたとしても国民の行った判断だったということである。

 そして裁判になった。裁判もまた国民の求める三権分立の一つの分野として国民の意思の表れでもある。裁判官は公務員として、行政の認定した被爆者でないとする判断に真正面から向かったはずである。膨大な証拠や証言が法廷に登場したことだろう。国は認定しなかった事実を真摯に主張したはずである。そして裁判官も同様に全身で受け止めたはずである。

 その国の主張も、裁判そのものもすべて国民の税金によって維持されたはずである。税金で賄われていることを捉えて、その全部に国民を背負わせる意見には必ずしも与するわけではないけれど、そして多くの被爆者として認定しなかったケースについて誤りだとされたとしても小数ではあっても認定しなかった事実が法に適合すると司法で認められたケースも存在した。控訴はこうした事実を背景に提起されてきたのである。

 そうした膨大な時間、金、そして専門的知識などが集約されて一つの結果へと司法の場で収斂されてきたはずである。それがあっさりと無に帰したのである。これまでの裁判は一体何だったのだろうか。
 「無」と表現するのは過激すぎるかも知れない。確かに被爆者として認定されることになった人にとっては朗報と言えるかも知れないからである。だが被告の背後に隠されているかのように見える国民の存在をどう理解したらいいのだろうか。

 だが、麻生総理大臣と原告集団との合意(この合意は8月12日に正式に書面で調印された)は、こうした司法の場における原告のみならず国や司法関係者の長い間の積み重ねを一瞬にして打ち砕いた。しかもその合意の中に国が勝訴したした者まで含めたことで、被告国(と言うよりは総理大臣が独断で)は司法制度そのものを根底から否定してしまったように私には思えてならないのである。

 この合意は更に波及していくことだろう。合意の当事者は訴訟提起をした原告全員である。だが被爆者としての認定を申請中の者、つまり審査待ちの者(被爆者なのか被爆者でないか不明であるにしろ)の数は全国にまだ7600人もいると言われている(8.7 朝日新聞、時々刻々)。果たしてその人たちをどうするのか。
 更に、自らの権利を主張しなかった者にその権利に伴う利益の享受もまた受ける権利のないことは分かっているつもりだけれど、認定の申請すらしなかった者、物理的にしろ情緒的にせよ申請することができなかった者への対応はどうするのか。しかもこの合意は一審で敗訴した原告(つまり被爆者でないことが確定した者)にまで及ぶのである。

 話は変わるけれど、今年から裁判員制度が始まった。8月2日東京地裁判決による第一回目に続き、12日のさいたま地裁判決が二回目になった。司法制度もまた時代により変化していくことだろうけれど、私は三権分立としての司法制度を信頼してこそ現代社会は成り立っているのだと思っている。そうした思いに対して今回の被爆者認定者との合意には、与野党逆転の噂の高い目前に迫った衆議院選挙(8.30投票)を考え合わせると、どうしても政局の絡んだ司法崩壊の一面が垣間見えてくるように思えて仕方がないのである。



                                     2009.8.15    佐々木利夫


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崩れていく司法