仲間と飲んで少し酔った体で終電近い電車を待っている姿は、飲兵衛たる私にとってそんなに珍しいことではないかも知れない。電車の到着までにはまだ15分ほどあり、ホームのペンチについ腰掛けてしまうのは年齢相応に足腰の弱ってきたせいなのだろうか。そんな私の隣に座っている若い女性は携帯メールに余念がない。チラリ眺める彼女の横顔からは、異様に長い睫毛が少し気になる。上睫毛ばかりではなく、下の睫毛もしっかりとカールされているようだ。

 私が電車を待っている琴似駅は札幌方面と小樽方面の二方向であるが、深夜に近いこの時間になると札幌行きは既に終わっている。彼女のメールを打つ指の動きは止まずに続いている。私だってその場に仲間が一緒にいるわけではなく、一人で自宅へと向かおうとしているのだから、たとえ飲み会が楽しかったにしろその余韻を残してニヤニヤ笑いながらベンチに座っているわけではない。だが、なんとなくメールを打っている彼女の無表情さが気になった。その無表情がなんとなく今の閉じ込めた彼女の心をそのまま表しているような感じがしたからである。
 携帯に向かって指を動かす作業は止まずに続いている。午前0時に近い駅のベンチに腰掛けて、彼女は誰にどんな文章を打っているのだろうか。

 無表情のままのそんな真剣さが、逆にどこか現実離れした雰囲気を漂わせている。無表情とボンヤリとした普通の表情とはどこか違うはずである。人間の表情を喜怒哀楽だけに分類してしまうのは誤りだろう。それ以外にも穏やかな表情、考え事をしている表情、少し眠たい表情、明日の仕事に悩んでいる表情などなど、人はいつか表情に心を写してしまうのではないだろうか。たとえそれが「何にも考えていない状態」だったとしても、無表情とはどこかで異なるのではないだろうか。

 無表情の典型とも思われている能面については既に発表したことがあるけれど(別稿、「能面の豊かさ」参照)、彼女の表情からはなんの感情も伝わってこないのがどうも気になる。当たり前の日常的な感覚を示すような表情すらも表われていないように思えたからである。

 人にはどんな場合にも内面と外面が存在するのかも知れない。「顔で笑って心で泣いて・・・」なんて古めかしい言葉があるけれど、それは単純だがそうした人の持つ二面性を如実に表しているのかも知れない。ただこうした言葉には、内面こそが真実でそれを偽るために人は外面を取り繕うのだというような意味が無意識に込められているような気がする。
 仮面うつ病という病名がある。うつ病という実態にもかかわらず、その症状が「うつ」という精神状態に表われるのではなく例えば腹痛であるとか肩こりや頭痛などの身体的な症状として表われる場合を示す言葉である。この場合の仮面とは「うつ」が真実で「腹痛」が偽りであることを意味し、まさに真実としての病気を隠蔽する手段としての意味を持たせられている。

 だが人は泣いている心を笑い顔で示すことなどできるのだろうか。表情と内心とを別異の状態としてコントロールすることを、人は自らの意思で選択できるのだろうか。

 電車を待つホームは暗い。携帯電話の液晶画面からの光で、メールを打つ女の顔はボーッと白く光っている。こうした風景は夜道を歩きながらの携帯でも日常的に見られるから、時にそうした女の顔に怪談じみた情景を感じてしまうこともあるけれど(別稿、「真冬に幽霊を見た」参照)、その顔が無表情であることはひときわ怪談じみた雰囲気に拍車をかけているようである。
 もしかしたら彼女が打っているメールは、何かの事務的な連絡で感情など入る余地のないものなのかも知れない。ただ私は、仮にそんな単純な事務的作業であったとしても、人は決してこんなにも無表情になることなどないのではないかと思い、そうした日常的な情感さえも反映することができなくなっている彼女のそんな気持ちを、密かに、そして冷たく感じてしまったのであった。

 それともしかしたらそうした無表情は、「切れる」こと以外に表現手段を持たなくなった、いやいや持てなくなった現代人に共通する感覚の鈍磨を表しているのだろうか。だとするなら、感ずる心をすり減らした現代人は、一体どこへ行こうとしているのだろうか。



                                     2009.6.4    佐々木利夫


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無表情の行方