昨年発表した最後のエッセイが除夜の鐘の話しにつながって「冥土」が出てきてしまったが(別稿「諸行無常の響きあり」参照)、それに引き続く新年の話題に「幽霊」登場はそぐわないような気がするけれど、実はこの話は昨年の暮れに経験したことなのでその辺はご容赦願いたい。
 本当に突然幽霊に出会ってしまったのである。夏の薄暮や真夜中なら、幽霊話もそれなりしっくり来るかも知れないが、厳冬期の幽霊はどうも寒々しくて似つかわしくない。

 夕方6時前後に事務所を出て50分くらいかけて自宅へと向かうのは、夏も冬もほとんど変わることのない私の通勤パターンである。
 さて昨年の大晦日に近いある日の帰り道のことである。冬至も過ぎて季節は春に向かっていると年賀状などには盛んに書くけれど、季節はまだ夕闇が明るくなってきたと感じるまでには届いていない。冬至明けは日の出は遅くなっているものの日没は僅かにしろその遅さを超えて早くなっているとデータは知らせているが、その差は微々たるものであって闇の濃さに変化は見られないと言った方がいい。

 6時過ぎ、道々はすっかり暗くなっていて、黄昏を「たそがれ」(誰そ彼、つまりすれ違う相手の顔が定かでない状態)と呼ぶように、行き交う人々の顔などほとんど見分けがつかない冬至明けの夕暮れである。
 向かいから歩いてくる遠い人影がある。ここは車の通りも比較的少ない狭い小公園の縁沿いの道で、街灯の数もまばらな淋しい通りである。向かってくるのはシルエットや髪型の様子からしてどうやら若い女性のようである。

 別にすれ違う人の顔を一々チエックしようと意識しているわけではないし、若い女性らしいからと特別に顔を覗き込もうとしたわけでもない。
 だがすれ違う少し前にその女性の顔をチラリと見たのである。顔など見えるはずもないその暗がりに、何とその顔は青白く光り目も鼻も口もないノッペラポーだったのである。そんなノッペラボーが斜め少し前方から私にゆっくりと近づいてきたのである。

 一瞬、何が何だか分からなかった。その女の顔に目も鼻も口もないことは気づいたのだが、見えた瞬間その事実とそのことに対する私の理解とがどうにも結びつかなかったのである。そして次に来たのがゾーッとした恐怖であった。咄嗟の出来事だったせいもあって、悲鳴を上げたり逃げ出したりはしなかったし、その場に立ち竦むようなことにもならなかったのだが、内心は恐怖心でパニック状態になってしまった。

 この歳になっていまさら怪談話でもあるまいしとは思うのだが、どこかで私は幽霊を信じているのかと密かに思ったのである。

 さてその幽霊の原因とその経過はすぐに分かった。実は犯人は携帯電話だったのである。その若い女性は、歩きながらメールなのかゲームなのか知らないけれど、私とすれ違う少し前に携帯電話のスイッチを入れたのである。通話なら電話機を耳に当てていただろうし会話の声も聞こえただろうから、こんな錯覚は起きなかっただろう。ところが彼女は画面を見ていたのである。 

 画面の光らない携帯電話はものの用にたたないことくらいはすぐに分かる。どんなに高級で高性能のテレビだって、画面に映像が出なくなったらそれは故障でありテレビの価値はないであろう。携帯電話だって同じである。様々な機能の詰め込まれている昨今の携帯電話だがどの機能一つ取ったって、画面操作のない利用などあり得ない。単なる通話の受信だって、画面を見て受信相手の確認や受信のための操作をするだろうからである。

 しかも最近の携帯電話の画面はワンセグなどと称してテレビの受信までできるようになつてきていて、それにつれて画面も大きくなり、さらに液晶やバッテリーなどの性能向上などもあって明るく見やすい画面はどんどん普及していっているらしい。

 その彼女はきっと携帯電話としては比較的明るく画面の大きい機種を持っていたのだろう。そして私とすれ違う少し前に、その携帯の電源を入れその明るい画面を眺めたのだろう。画面を眺めたのは画像なり文字なりを見るためである。大きくなったとは言え携帯の画面である。ちゃんと見るためにはどうしたって顔を近づける必要があるだろう。

 だから私に近づいてくる女性の顔がボーっと青白く光ったのである。だからそれはノッペラポーの幽霊ではなく、きちんと目も鼻も口もついた女性の顔がそこにあったはずなのである。
 もちろんそのことはすれ違ってすぐに気づいた。気づいたけれど、だからと言ってノッペラポーでないことが確認できたわけではない。青白く浮かんだ顔が携帯電話の画面の明かりのせいだと気づき、その論理的帰結としてノッペラポーは錯覚ではないかと自分を納得させただけのことにしか過ぎない。
 ぼんやりと浮かんだ青白い顔に目鼻がついていなかったとの錯覚は、依然として私の中では残ったままになつているのである。

 どうも私には、携帯電話そのものに妖怪じみた気配を感じてしまう性格みたいなものがあるらしく、これまでにも何度か似たような話をここへ書いたことがある(別稿「携帯お化け列車」、「右腕のない女」参照)。
 ただそれは携帯電話が大衆の中へすっかり浸透してしまって、存在そのものにこれまでにない生活習慣を作り始めていることに対する違和感であった。

 そのことと今日の幽霊現象とはまるで違う。携帯電話は電話としての機能を超えて会話の喪失であるとか依存症などの様々な人間関係に影響を与えてきているが、今日の幽霊は携帯電話は機種としての特性面からも幽霊になりつつあることを示しているのかも知れないと感じてしまった。だからどうも携帯電話には妖怪性が秘められているように感じてしまい、そんなこんなで私は幽霊を持たないことにしているのである。



                          2008.1.4    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



真冬に幽霊を見た