演目がなんだったかすっかり忘れてしまったが、正月だったからでもあるのだろうが、ふと回したテレビのチャンネルの中に「能」があった。とは言えその舞台にじっくり付き合うまでの鑑賞力が私にはなかったので、結局は一過性の冷やかしみたいなものでしかなかったのだが・・・。
 そして話はもう少し続く。最近小樽市にある能楽堂が老朽化してきているらしく、その舞台の保存活動の一環として狂言師で人間国宝になっている野村万作氏による講演が来月24日に行われるとの記事を読んだ(朝日、09'.1.23)。小樽ばかりではなく、薪能などと称する観光まがいの催事も含めるなら、日本中に能を愛好するファンもかなり多いと聞いているから、日本の古典芸能の先行きはまだまだ明るいものがある。

 とは言っても能についての私の無手勝流については既にこの場で自白済みであるから(別稿「卒塔婆小町」、「卒塔婆小町後日談」参照)、それと平行しているように能面についてもじっくりと見つめる機会なんぞもまずないと言っていい。だからと言ってそうした鑑賞力のなさはあくまでも私だけのことであって、能や狂言や能面などに魅力を感じる多くの人の存在を否定することはできないだろう。

 先に発表した能に関するエッセイではなんだかんだと悪口を書いてしまったけれど、結局それは私に能を理解する力のないことを示すことでしかなかったのかも知れない。最も単純な批判は、「理解できないものは否定する」ことだと、あまりにもあっさりと自白してしまっただけのことではないのかとこの頃になっていささか先走ったことを反省している。
 たがしかし、そうした思いにもかかわらず、能面はいつしか私の前に忍び寄るように姿を現すことがある。関心を持って能動的に鑑賞しようとするのではないにもかかわらず、ふと能面に心惹かれている自分を感じることがある。

 「能面のように・・・」とは、まさに無表情を示す言葉である。無表情とは無関心であり、場合によっては拒否を覆い隠す状態でもある。
 でも静かに対面してみると能面の持つ表情のなんと多様であることか。笑いも泣くことも、それは人の表情である。つい先週放映されたNHK教育テレビの「サイエンス・アイ」は、ロボットとアンドロイドを取り上げ、そこから人間とは何かを探ろうとしていた。どんなに精巧に作られていても、ロボットと人間の違いはどこかで感じるものがある。その原因は表情、つまり話したり聞いたり考えたり戸惑ったりと言うようなあらゆる場面に、人はそうしたこととは直接無関係であるにも関わらず、目線のゆらぎや手や唇などによる微妙な動きを同時に示していた。

 二人だけの対話だって、決して相手をじっと見据えたままに語りかけているわけではない。視線をそらしたり、少し上を向いて考えるふりをしたり、俯いたり瞬きをしたりなどの様々な表情が顔全体の動きや手足の動きなど共にその行動がトータルとして人間の行動であることを構成していることが理解できた。

 ところが能面にはこうした動きがない。木彫の仮面に過ぎないのだから、彫られたときの一つの型にはまった表情を永遠に続けるだけである。それは舞台にあるときも、演者の顔から外されて脇に置かれたときも、そして箱に収められて次回の出番を待つまでの長く暗い倉庫の中にあってもである。

 にもかかわらず能面にはどこか笑いや嘆きや憂いが表われるのである。そんなことはないはずである。例えば泣いてる表情として作ったのなら、その面は永久に泣いているはずだからである。それは見る人の心が投影されるからなのかも知れない。悲しい物語に動かされた見る人の心が、表情を変えないはずの能面から悲しみや喜びを感じ取ってしまうことによるのかも知れない。

 とは言え、そうした解釈にもまたどこか釈然とできないものがある。私は能をまるで知らない。だから、演じている場面が抱腹の笑いを示しているのか、愛する者の死を嘆いている場なのかをきちんと知ることなどできないからである。ましてや写真や展示場で「面」だけを見ているときなどは、演じることから完全に切り離されているのだから、場の解釈などの入り込む余地などまるでないと言ってもいいからである。

 ネットで検索してみたところによれば、能面には私が知る以上にさまざまな種類のあることが分かった。私には「能面」が一つのジャンルとして確立されているのかどうか必ずしも分かっていない。
 つまり、例えば翁や姥、小面や般若などなど、数多くの面は、その種類や表情が限定されていて、新しい造形をそこに持ってくるのは許されないのかどうかの疑問でもある。極端に言うなら、例えば「犬の面」がこれまでの能面の中になかったとして、新しく「能面としての犬の面」を創り上げることや演じることが許されているのだろうかと言うことでもある。

 新作能というジャンルが許されているようなので、それに伴って新しい造形としての面の創作も許されていいような気のしないではない。しかし他方、そうした勝手な創作が許されるのならば、例えば翁の面にしても、笑いの数や怒りの数、嘆きや悲哀や涙などなど、無数とも言える人間の表情に合わせた数多くの面があってそれぞれに怒りの程度を示す番号でもつけた数だけ、古典芸能の範囲内にある面として許されてもいいことにもなる。

 ただ私が能面に感じたのは、たった一つの無表情な面の中に、実に多様な表情が隠されていることを発見した驚きであった。それは演者の力によるものだと言われれば返す言葉はないけれど、実を言うとテレビでビデオでも、演じている姿からはそうした表情の変化を感じることはできなかったのである。それは私の理解の限界からくるものであることは分かるけれど、それにもかかわらず写真や壁に据えられた面そのものの中に、僅かではあるけれど悲しみや喜びや嘆きの多様さを垣間見ることができたのである。
 もちろん、能の理解などには程遠い老いた税理士のほんの気まぐれではあるのだが・・・。



                                     2009.1.27    佐々木利夫


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能面の豊かさ