なんでもかんでも地球温暖化に結びつけたがるような風潮はどうかと思うけれど、今年の冬は例年になく暖かい日が続いているような気がしている。天気予報で聞く限り降雪量は例年とそれほど違わないようなので、積もるよりも融けていく速さの方が勝っているからなのかも知れない。

 そう言えば例年ならとっくに凍り付いて全面雪に覆われているはずの発寒川も、この冬は両岸からの氷はそれなりせり出してきているものの、流れは中心を残したまま川上から川下へとつながったままの姿を見せている。
 それでも季節は2月に入り、朝晩の冷え込みは今が真冬だと知らせながらも日差しは時にコート越しのぬくもりを伝えてくれるようになってきている。

 今年は2月3日が節分であった。子どもが小さい頃ならとも角、老夫婦二人だけの暮らしに豆まきも福は内も縁がなくなって久しい。
 そんな節分の日のお昼前、事務所で何気なく外を見ていた。隣のビルの壁に向かって開いている事務所の窓からは、はす交いに道路が見えるだけでそれほど視野は広くない。
 ふと見る空にボタン雪が舞っていた。日差しの中に雪が舞っていた。陽光の中を輝くように大粒の雪が漂っていた。風はほとんどなくて、まっすぐにゆったりと雪は舞い降りていた。

 天気雨だとか、キツネの嫁入りなど、雨と日差しを同時に見ることのできる風景を示す言葉は古来から存在しているので、雨が雪に変わったところでそれほど珍しくないかも知れないけれど、それでもなんだか不思議な現象を見ているような気にさせられた。降っている雪がなんだかとても暖かそうで、そんな景色が少し現実離れの雰囲気を伝えていた。

 もちろんただそれだけのことだった。それでも机に向かい、椅子にゆったりと背を預け、コーヒーの香りにつつまれながらそうした景色をしばらく眺めていた。

 北海道の2月はまだまだ冬である。真夏が夏至から1〜2ヶ月遅れて訪れるように、厳寒期も冬至から遅れてやってくることは経験からも明らかなことだし、2月はもしかしたら一年で一番寒い季節なのかも知れない。
 そうは言ってもいつも目覚める朝の6時近く、これまでは暗い空が広がっているだけだったのに、南東に向いている窓の水平線にこの季節になると僅かな曙の気配がし始めてくる。それはきっと夜空が晴れているからなのだろう。その証に、6時半を少し回った頃になると真向かいのマンションの左手から朝日が顔を出し始めてくる。日の出の位置から考えるなら理論的には今日が本年最初の現象ではなく、朝日は数日前からその顔を出していたのかも知れないけれど、窓越しに赤い太陽に対面したことがどこか心を弾ませてくれる。

 私の住んでいるマンションは、毎年冬至になると真正面から太陽が昇り始めるのだが(別稿「冬至の見える窓辺と惑星直列」、「冬至が明けていく」参照)、昨年の夏に道路一本を隔てた向いの空き地に15階建てのマンションが立ちはだかったことで、残念ながらいままでの眺望は諦めざるを得なくなってしまった。
 それでもそのマンションが我が家の窓全部を通年で塞いでしまうほどでもなく、冬至から一ヶ月程度で日の出の位置が少しずつ東へずれていくにしたがって太陽は再び私の目に触れるようになってきた。

 網走で今年初めて観測された日を示す流氷初日がつい先日報告された。例年より遅いらしいし、昨年はオホーツク海へ暖流系の魚が紛れ込んできたとの情報もあったので、暖冬の知らせを手放しで喜ぶことはできないのかも知れないけれど、巡る季節の知らせはどこかホッとさせるものを持っている。
 流氷の接岸は陸地へ向かって風が吹いていることの証でもある。だから氷の上を滑ってくる風はいつもよりも冷たい。流氷は寒さの信号でもあるけれど、同時にオホーツクの遥か北の海で生まれた海氷が寒波の呪縛を解かれて小さく解放されていることの知らせでもある。だから流氷の訪れと寒さの信号は春の知らせでもある。

 ともあれ色々な出来事に春を感じてしまうのは、それだけ長かった冬からの解放を願う心の身勝手さによるものなのかも知れない。

 「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。・・・

 清少納言は枕草子をこんな言葉で書き始めたけれど、北国にも春が近づいていることを、あけぼのにたなびく雲の姿に確かめることのできる日々が次第に濃くなってきている。



                                     2009.2.11   佐々木利夫


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節分に降る雪