私自身、中学・高校時代に経験した水泳と体操以外にスポーツとは無縁の生活を続けてきたし、現在もその延長線上にある。だから「何かスポーツをやっていますか」と聞かれたところで、せいぜいが「毎日1万歩少々歩く程度ですね」と答えるのが関の山であり、スポーツに関してあんまり威張れる状況にはない(別稿「私はゴルフが嫌いです」、「実は野球も嫌いなんです」参照)。

 それでもこの頃はダイエットだのアンチエィジングだの健康志向だのとやたらスポーツが流行ってきており、老いも若きも男女を問わずに運動が盛んである。私はそうしたことをどうのこうの言いたいのではない。ただ私の身勝手な思い込みによるものだとは思うのだが、気になるのはどこか現代のスポーツがいわゆる「日常の健康管理」と言ったイメージからどんどん乖離していっているような風潮が感じられるからである。

 それは、いわゆるディケアなどの場におけるようなリハビリじみた「運動」から趣味の「スポーツ」、そして運動選手が励む競技などへと変化していくに伴って、スポーツそのものの質や意味などがどんどん変節していっているように思えてならないと言う意味である。

 運動とは何か、そんなことをしかつめらしく探る気持ちはないけれど、少なくともいわゆる「体育」の時間が小学校の教科(恐らく幼稚園なども同じだろう)にも取り上げられていることは、運動することが身体の健全な発達に必要であるとの背景があるからではないだろうかと思うのである。運動が単に勉強時間からの解放だけを意図したものではなかっただろう(もっとも体育の授業を受けている生徒としての私の経験からしてみれば、遊び時間との違いなどそれほどなかったような気もしているけれど・・・)。

 「健全なる精神は健康な身体に宿る」は古代ローマの詩人ユウエナリスの言葉だと伝えられている。ところでこの言葉の正しい意味は「宿る・・・」ではなく「宿れかし・・・」、つまり「宿ってくれたならどんなに素晴らしいことだろう」にあるとされている。残されている僅かの彫刻や物語などを根拠に、しかもそれらをろくに調べもしないままにローマ時代を推し量るのは誤りのもとかも知れない。だがこうした言葉が発せられた背景には、恐らく身体能力の高さや肉体美のみがもてはやされていた当時の社会の風潮に対する警告があったのではないだろうか。
 それはともあれ「健康な精神と肉体の統一」は人としての一つの理想なり願望であったことそのものに異論はないであろう。

 だから運動はまさに健康のための手段であることが基本として存在していたのではなかったのだろうか。そのことは例えば現代でも、健康管理は適切な運動の実践なくしては存在しないほどにも確立されていることからも分かる。
 もちろん運動することが健康のための必須の要件ではないだろうし、運動することが必ず健康につながるとするのも一種の誤解であろうことを理解できないではない。それでも「運動あってこその健康」みたいな意味合いは、やはりどこかで多くの人に定着しているのではないだろうか。
 私がこんなことを書き始めたのは、仲間の多くに運動、それもゴルフやスキーなどによる足腰のトラブルが発生してきていることを聞くようになってきたからである。もちろんそれは我々の世代になってくるとゴルフやスキー以外にスポーツと名づけられるような体を動かす手段とは縁が少なくなってくることが背景としてあるのかも知れない。ただそうした事態は単に私の仲間に限らず、数多のスポーツ選手にも怪我や病気や事故などと言った障害が多発しているような報道などに触れる機会も多く、そうした事実、つまり運動による身体への障害という事実はかなり一般化してきているのではないかと思えたからである。

 最初のうちは単純にゴルフに熱心な仲間の間に、腰痛を訴える数が増えてきたことにどこか気になったくらいであった。それは私は必ずしもそうは思っていないのだが、ゴルフを運動だと言っているにもかかわらず腰を痛めてゴルフを休んでいると言う状態が、どこか自己矛盾になっているのではないかと思えたからである。私自身の意識の中で、運動とは心身とまでは言わないまでも少なくとも「体を鍛えるためにやる」程度の理解があり、そうした鍛えることが体の障害を引き起こすと言う状況にどこか不自然さを感じたのである。
 ゴルフをやってもやらなくても加齢とともに腰痛は自然発生し、それを阻止または到来を引き伸ばすために運動をやったけれど、それでも腰痛になってしまったと言うなら分からないではない。だがゴルフが原因で、ゴルフをしなかったならば起きなかったであろう腰痛を引き寄せたとなると、それは運動の意図とは真っ向から対立する事態ではないかと思えたのである。

 もちろんそれが一人だけだったら、無茶してゴルフに入れ込んだからだろうくらいで済むのだが、同じような症例を示す仲間が増えてきて、そうした仲間の一人に聞いたところによると「ゴルフで腰を痛めることなど常識だ」くらいにあっさりとした答えが返ってきたのは意外であった。だとすれば、ゴルフとはまさに運動ではなくて腰痛を誘発する原因行動の一つになっているのではないかと思えたのである。ならばそうした行動の選択はインフルエンザの患者が密集する病院へ被患していない者が物好きで飛びこんでいくようなもので、それでインフルエンザに罹ったからと言ってもそれは自ら好んで罹りに行ったのと同じようなことではないかと思ったのである。

 ただそうこうしている内に、こうした「運動」と「運動できない状態の誘発」とはかなり密接な関連を持っているのではないかと思えてきた。それは私の仲間のような素人のみならず専門家たるゴルファーでも、いやいやゴルフだけではない、相撲でもサッカーでもマラソンでもスケートでも野球でも、極端に言うならほとんど全部のスポーツの、それもプロと呼ばれる者の多くに、そのゲームへの参加に支障をきたすような障害が、そのスポーツを起因として発生していることが分かってきたからである。

 それはどこか変である。私たちが考えているスポーツというイメージからすれば、「体を壊すようなスポーツ」と言う言葉そのものがどこか自己矛盾ではないかと思えたのである。もちろんそれはもしかしたらそうした体を痛めるスポーツの背景に、優勝することへの名誉であるとか勝利に伴う賞金や報酬と言ったものの存在があるからなのかも知れない。もしそうだとするなら、スポーツには「体を鍛える」といった本来の目的から外れて、賞賛であるとか報酬などと言う別な視点を与えられたことによる結果なのかも知れない。

 膝を痛めたとか腰が痛いなどなど、怪我なども含めて運動選手に事故はつきものかも知れない。そんなこと気にしていたら「優勝」も「金メダル」も「横綱」も「MVP」も、そして来年の契約金もふいになると言うかも知れない。そのこと自体を否定はすまい。だがそうした勝負の世界を、私たちが普通に理解している「スポーツ」や「運動」などと一緒にしないでほしいと思ってしまうのである。そうした勝負や報酬の世界に生きる者の行動を、運動であるとかスポーツなどと言ったオブラートみたいな柔らかさで包んで欲しくないのである。

 体を張って、つまり我が身の損傷など厭わずに賞賛を求めて野球やサッカーなどに挑むのならば、それは運動選手ではなく単なる「勝負師」ではないのか。高額な報酬を狙って体を張るのならば、それは単なる「賞金稼ぎ」ではないのか。健康管理のためにささやかに続けている「運動」とそうした賞賛や報酬を目的とした「運動」とを混同させてしまうことは、逆にスポーツ本来の持つ意義を貶(おとし)めることになってしまっているのではないだろうか。

 こうしたスポーツへの過大な期待は単に個人の名誉や報酬だけでなく、場合によっては国の威信などにまで及ぶこともあるとさえ言われている。そうした思惑はやがてドーピング(筋肉増強剤などの薬物を使った身体改造)と言った犯罪まがいの行動にまで運動選手を追い込もうとしている。
 健康と運動とはいつからこんなにも乖離してしまったのだろうか。古代ローマのユウエナリスが望んだ教訓は、現代でもそのまま生き残っているような気がしてならない。



                                     2009.12.2    佐々木利夫

 追記〜最近の新聞を賑わしているスポーツ記事なのだが、男女ともゴルフの最高位は賞金王、賞金女王にあるようだ。こうした名称はいかにも即物的である。そうした現象を「金が敵の世の中さ、世の中こんなものさ」などと皮肉りたいとは思わないけれど、これでまた少し私のゴルフ嫌いが増殖してしまったようです(09.12.7)。


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



スポーツの意味