ゴルフ嫌いの話(別稿、「私はゴルフが嫌いです」参照)を書いているうちに、そう言えば私は野球も嫌いだったなと気がついた。そんなこと言っちまったら最近は相撲も嫌いになったし、サッカーやバスケットやスキーなどなど、ほとんどのスポーツに対してまるで無関心な私だから野球だけが特別ではないかも知れない。
 ただ、無関心というのは「嫌い」よりもう一段別格であり、しかも野球嫌いはゴルフとは違った理由に基づいていることに気づいたのである。

 子供の頃に草野球で三角ベースなどの経験がないわけではないし、赤バット、青バットなどの言葉をかすかに記憶しているところからみれば、幼いなりに野球には多少興味があったようである。そうは言っても野球の実戦経験はソフトボールなども含めて物心ついて以来私にはまるで無縁であった。
 それは単に興味がないことによるところが大きいのかも知れないけれど、ルールそのものがどうも私の性に合っていないことも原因の一つになっているような気がしている。気に入らないルール、それはこんな二つである。

 @ 対戦チームの一方が必ず遊んでいること。

 多くのスポーツは二つのチームが互いに対戦しながら勝ち進んでいくというのが定石だろう。マラソンや水泳などのように個人戦でありながら集団の中から勝者一人を選んでいくというルールがないではないけれど、団体戦はサッカーでもラグビーでもバスケットやバレーでも、個人戦だって例えばテニスや卓球などのように対戦する二つのチームや個人が直接ぶつかり合って勝敗を決することがスポーツの基本であるような気がしている。

 しかし野球だけは違うのである。対戦するチーム数は多くのゲームと同様に二つである。だが野球は始めから終わりまで一方のチームだけがグラウンドを動き回るのに対し、もう一方のチームは必ずベンチで休んでいるというか参加しないのである。こんな形のゲームと言うのは野球だけではないだろうか。
 もちろん打者がいてヒットなどでの出塁がある。そうした意味では打撃側も数人がグランドに出ていることもあるのだから全員がベンチで休んでいるという表現は必ずしも正確ではないだろう。だが、例えばホッケーのように、そしてサッカーなどのように、二つのチームの全員が試合時間のすべてを「休みなく勝利に向かって全力を傾ける」という動きとはまるで違うのである。表現が不正確であることを承知で言うのだが、やっぱり野球は片一方のチームが休んでいる、つまりチームの半分は常に休戦状態にあるのであり、そうしたゲームと言うのはどこかスポーツとして変なような気がしてならないのである。

 それがこのスポーツのルールなんだと言われればそれまでのことかも知れない。そうしたルールを承知の上でそのスポーツの楽しさを味わうのだから、楽しんでいる人がたくさん居ることをどうのこうの言ったところで始まらないことではある。でも私にはどうしても「半分が常に休んでいるゲーム」というものに違和感が残ってしまうのである。

 A ホームランの評価が変だと思えること。

 これもルールなんだからと言われてしまえばそれまでのことである。一定の方向と範囲を決めて、その境界を超えてボールを打ち込んだ時、その打撃成果をホームランと呼ぶ。そしてその結果に対して守備側は徒手空拳で何をすることもできないと言うルールである。

 私にはそのルールがどこか納得できないのである。野球は決められたグランドの中(野球だけではなく、どんなスポーツだってある決められたコートなりコースの中でのゲームになるのは当然のことだろう)における試合である。その決められた区画の中で得点を競う実力による対戦である。
 ならばその区画を超えてボールを打ち込む行為は、たとえそれが意図的であろうが偶発的であろうがゲームとして許してはいけないのではないだろうか。そうした行為の行為者を失格とするか、はたまたその行為そのものを無効としてやり直させるかはとも角として、そうした結果をホームランと呼んで賞賛の対象にするなどはどこか変なのではないだろうか。

 スポーツに男女差や体重差などを設けているのは、均衡した立場でゲームを成立させようとする意図の表われであり、そうした差別をすることで逆にゲームの公平性を担保しようとするものであろう。戯れでならともかく、力士が小学生の相撲大会に真剣勝負で挑むようなことは許されないのである。

 さて、ホームランに対して守備者はなんにもできない。できないのではない。グランドの回りは高い塀で囲まれていて守備者は観客席へはおろかよじ登ることすらできない。つまり観客席へ飛び込んで飛んできたボールを守備側はキャッチしてはいけないと始めから定められているのである。これは勝負として不公平ではないだろうか。挑戦して叶わなかったのならそれはそれでいい。だが打撃が有効で、その捕球に挑戦すること自体を封じられているような勝負はどこか不公平である。このような片方に一方的に有利であるようなシステムは、ゲームとしてそもそも失格ではないのだろうか(別稿「太陽と北風」参照)。
 ホームランをファウルと同じようにノーカウントにすると言う方法もある。現にバレーボールでもテニスや卓球でも区画を超えた打球はアウトとされているではないか。

 昔見たテレビアニメからの請売りでしかもあまりにも空想的な事例ではあるけれど、仮に「消える魔球」と言うものが存在したとしよう。彼の投げる球は誰一人打つことのできない魔球である。なんたってその球は打者の直前で消えてしまい、次の瞬間捕手のミットに忽然と表われるのだから・・・。投手一人で野球が成立するわけではないが、そうした投手がいたとしたら彼がマウンドにたった一人立つだけで、キャッチャーを除き他の選手は守備に回ることそのものが必要ないことになる。ファウストにもセンターにも外野にも無人の野球を観客は見ることになる。そうしたときその「消える魔球」は投手への称賛の対象とされるのだろうか、それともあってはならないものとして排斥されてしまうのだろうか。「手も足も出ない」と言う意味では、消える魔球もホームランも全く同じものだと私には思えるのであるが・・・。

 もっともそうしたルール改正で私の野球嫌いが治るかと問われれば、これまでの長い人生を野球嫌いできたので今更だとは思う。またホームラン王の存在にすっかりはまり込んでいる多くのファンに、こうしたルール改正が納得してもらえるかも疑問なしとしない。

 ホームランと言うのは野球が始まったときから今ある姿でのホームランだったのだろうか。ホームランに疑問を持つ人などこれまでいなかったのだろうか。だいたいがホームランというのは、疑問を持つことすらも許されないほど絶対的な評価を最初から与えられているものなのだろうか。

 そんなこんなでへそ曲がりの野球嫌いは、とんでもない屁理屈をつけて野球嫌いを正当化しようとしているのです。なんたって野球シーズンがはじまると見たいテレビ番組や聞きたいラジオがどんどん侵食されていってしまうし、ビデオ録画も試合の延長予定などで思うようにいかなくなり、場合によっては番組そのものがなくなってしまうなど影響が大きいからである。
 だからそうした時くらい教育テレビの外国語番組でも見ろ、テレビを消して本を読め、早く寝ろなどと日頃から自分に言い聞かせているのだが・・・。



                                     2009.9.16    佐々木利夫


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実は野球も嫌いなんです