定年退職してから10年を超えてしまっているから今更と言えば今更ではあるのだが、手当たり次第に濫読を重ねる癖もあって最近「定年世代のメンタルヘルス R60」(武藤清栄、水川雅子共著、三松株式会社発行)を読んだ。心理学系統の本は比較的好きなこともあって手に取ったのだが、数ページを経てどことない違和感を感じてしまった。
 それは本文2ページの「人間関係尺度テスト」と称するチエックシートに質問事項が並んでいて、〇なら1点、×なら0点をつけろという内容であったからである。

 それは「次のような人は身近にいらっしゃいますか」と投げかけるこんな10問であった。

 @ 気持ちや感情を受け止め、理解してくれる人
 A 逢うと楽しかったり、気持ちが落ち着く人
 B 本音が言える人
 C あなたのことを認めてくれる人
 D あなたのために評価してくれる人
 E あなたの能力を引き出してくれる人
 F よく挨拶したり、声をかけたくなる人
 G 甘えられる人
 H あなたの気持ちを察してくれる人
 I 困ったときに援助してくれる人


 そして7点以上を人間関係に恵まれている人、5〜6点はふつう、4点以下は恵まれていない人と評価するのである。

 私がこうしたメンタルな質問に懐疑的であることは既にここで発表したところではあるけれど(別稿「私の中の心療内科」、「増えていく『うつ』」参照)、10年前とは言っても定年を経験した者としてこの診断基準にチエックをつけてきみたい誘惑がどこかにあった。

 この質問の対象者は定年を迎えた60歳である。企業でも官庁でも、その職場できちんと勤め上げ、これからの生活を「毎日が日曜日」と呼ぶかそれとも「第二の人生」と呼ぶかはともかくとして、一家を支えてきた人生に少なくとも一区切りをつけた者に対する質問である。つまり質問の意図をきちんと理解できる者に対する質問である。

 @ 「私の気持ちを受け止め理解してくれる人がいるか」と問われて、私ははたと迷う。天蓋孤独、孤立無援の身ではないのだから、「いない」と言うことはない。だが全面的に「いる」と答えるにはどうしたって躊躇がある。人が人を理解すると言うのはどういうことなのだろうか。家族や友人の中に私をきちんと理解してくれる人が本当にいるのだろうか。著者の求める答えはイエスかノーかの二択である。100%と0%のどこかに私の答があることは確信を持って言えるけれど、チエックは右か左かのいずれかにつけなければならない。

 A 「逢うと楽しい人がいるか」、そんな人がいないわけではないけれど、だからと言ってどんな場合にも楽しいのか、気持ちが落ち着くのかと問われるならば、どちらかと言うなら私は一人で本を読んだり音楽を聞いたりこうしてエッセイ作成に向かっていることにも十分に楽しさを感じることができる。他人との付き合いを否定しようとは思わないし、そうした時間を楽しい思う時もあるけれどイエスとするかノートするか・・・。

 B 「他者に対して本音を言えるか」と問われた時、恐らく多くの人は「本音なんぞ言えない」と思うことの方が多いのではないだろうか。ならばお前の人生のほとんどは嘘で糊塗した中にあったのかと追求されると返答に窮するし何をもって本音というのかも難しいところではあるけれど、多くの場合本音は他者を傷つけ、我が身を他者から疎外してしまうような場合が多いのではないだろうか。人間関係は本音や建て前と言った割り切りよりも、もっとゆるやかな様々な潤滑油を用いることで維持されているような気がするからである。

 C 「私を認めてくれるか」だって。そんなことどうしたら分かるというのだろうか。人はどんな場合にも他者からの評価を受けながら生きていることに違いはない。無事に定年を迎えられたこと自体を、上司や同僚や部下がその人を認めたからだと言っていいのかも知れない。もしそうなら定年はその事実だけで人から認められたことの証になるのだから、こうした質問を掲げること自体が矛盾することになる。
 私は果たして認められたのだろうか、それとも認められないままに人生の終盤を迎えようとしているのだろうか。「認められる」とは一体どんなことを指しているのだろうか。

 D 「評価してくれる人がいるか」と言う質問そのものがCの質問とどう違うのか分かりにくい。「評価」と「認める」こととは同じようなレベルなのではないだろうか。質問の意図そのものが質問のための質問になっているような気がする。ともあれ、何をどんな風に評価してくれたら〇をつけていいことになるのだろうか。

 E 「能力を引き出す」と言うからには、その人の持っている真の能力を事前にきちんと把握していることが必要だろう。そんなことが果たして可能なのだろうか。もちろんある能力の存在を認めて指導するようなことは可能かも知れない。だがその能力はその人の本当の能力だとどうして保証できるのだろうか。

 F 挨拶をしたり声をかけたりすることは日常生活における必要な潤滑油である。だから「挨拶をしたい」だとか「声をかけたい」などと意識しながら人は行動するものではない。それに、機嫌や体調などの悪いときなどは相手から声をかけられてもうっとおしいと思ったことくらい、長い人生には何度もあったはずである。無意識による挨拶を評価に加味しないとして、答えは〇であり、同時に×である。

 G 「人に甘えられるか」と問われて「はい」と答えられる人はよっぽどの偏屈者ではないだろうか。ここで質問されている定年退職者とは多くの場合男であろう。60歳になった男に対して「他人に甘えられるか」との質問そのものがどこか空々しい。なんたって甘えることなく生き抜くことが自立する個人としての生甲斐でもあったのだから。そしてついつい「不倫なら話しは別かも知れないな」なんて余計なことまで考えてしまった。

 H 「あなたの気持ちを察してくれる人がいるか」と聞かれて、60歳を過ぎた男はどう返事をしたらいいのだろうか。質問を変えてその意味を「私を分かってくれる人の存在」だとするなら、@の質問に戻ってしまうことになる。「察する」とは相手にその答を聞かないままにこちらが判断することを意味するから、「多分そうだろう」と自分勝手に思いこむことも得点にしてしまっていいのだろうか。

 I 「困ったときの援助」、これが一番難問である。気の合う先輩や仲間が自然に見つかることもあるし、それとなく探りを入れて仲間に入っていくこともある。それらの人たちの中に頼れる仲間がいるかと問われたとき、その頼れる度合いに思いを馳せるなら「頼れる」とは一体何だろうかと混迷の世界に入り込んでしまう。
 いやむしろ、「ほどほどの付き合いによる親しさ」程度の「頼り具合」ではないのかとさえ思ってしまう。「困ること」の程度にもよるけれど、赤提灯で解消できるくらいの仕事の愚痴や5万や10万貸してくれなら〇をつけられるけれど、500万、1000万貸してくれだとか倒産しそうだからマチ金の連帯保証人になってくれなどと言うようなことにまでなってしまったときに援助してくれるかどうか、・・・多分×である。

 かくして私はどの質問にもきちんと1点をつけることはできそうにない。考えてみれば、ヒトラー、ガンジー、アィンシュタイン、ベートーベン、小説の中の主人公、現在混迷中の多くの政治家などなど、私はそうした人たちについて表層的にしか知らないけれど、それでもこれら10の質問に彼等が数多くの1点を投ずる自信があるとは到底思えないのである。 キリストにしたところで裏切りや不信の中にあって自らもそのことに悩み、神に向かってさえ「私を見捨てるのか」と叫んだではなかったか。

 人はそれぞれである。それを個性などと名前をつけてしまうととたんに立派な風格を持ち始めてしまうけれど、そんなつもりはない。美化するつもりはないけれど、個は個としてそれぞれに意味があるのではないだろうか。
 ここに掲げられた10の質問は人間を平均化して評価しようとし過ぎているのではないだろうか。群れないこと、流されないこと、特異であることは、普遍さとは矛盾しないのではないかと私は考えているのである。個性と言う評価もまた人を美化してしまい勝ちな傾向を持っているけれど、時に愛され、時に憎まれ、厭な面や欠点を多く抱えながら生きているのが個としての人なのではないだろうか。

 人間関係が良いとか悪いとかとは一体どういうことなのだろうか。多数の中に自分を埋没させ、他者と争わないことが至上の善だとこの質問者は答を予測しているような気がする。良いことを善、悪いことを悪と区分することの意味が果たしてどこにあるのだろうか。
 人は時に耐え、我がままを重ね、妬み、意気に感じるなど、そうした関係を通じて成長してきたのではなかっただろうか。「いつもみんな仲良し」なんてことは、もしかしたら理想でも何でもないのではないだろうかと私は思う。自分と相容れない他者を丸ごと認め、違いを違いとして理解していくこと、ぶつかりあうことの中から、いやいやぶつかりあうことそのものが豊かな人間関係を作り上げていくのだと言ってもいいのではないだろうか。

 やっぱり私はこの質問にチエックをつけると0点になるようだ。一つ一つは完全な×ではないのだけれど、どれもこれも「まあまあそこそこ・・・」程度であって、きちんと1点をつけるほどには人間関係に恵まれているとは言えないことが分かった。
 ただそれは質問のそれぞれに1点か0点のいずれかをつけろ、つまり中間点なしに100点が0点かのいずれかを選べと言うからそうなるのであって、「100点なんぞはおこがましいけれど0点にもどこか納得できないんだよな」と、私は胸のうちでぶつぶつ呟いているのである。

 あなたはもちろん、100点満点を少なくとも7個以上は取れる自信を十分お持ちなのかも知れないけれど・・・。



                                     2009.2.13    佐々木利夫


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