アルバムに写真が貼ってあるんだからネガフイルムの出番などまるでなくなったし、スライド映写機も壊れてしまったのだろうかなり以前からその存在の記憶がない。なんたって投影するスクリーンすら見当たらないのだから、スライドを見たことなど遠い昔のような気がしている。だからネガ・ポジも含めて私の撮影済みフイルムは書棚の奥で埃まみれになったまま、その出番などまるでなくなってしまっていた。

 そうした出番のなくなった背景には、実はネガ・ポジのフイルム画像をビデオ信号に変換することのできる装置を持っていたことも影響している。つまりその装置を通すことで、フイルム画像をビデオテープに録画し直すことができるという優れものだったからである。そしてもう一台、ワープロのような操作をすることでビデオテープにタイトルやコメントなどを挿入できる装置も持っていた。この2台を使うことで、旅行や子どもの成長などフイルムに残されている画像を、テープレコーダーなどから取り込んだ任意の曲とともに一種の静止画の連続による映画もどきの編集ができたのである。

 もちろんその記録された画像・音楽はともにアナログのままであり、「ビデオテープを見る」以外にその内容を知ることはできない。こうした編集は作業そのものはそれなりの楽しみを伴ってはいたものの、仕上げるにはかなりの編集時間を要した。しかも作成済みのテープは一度見てしまうと繰り返して見る機会は少なくなってしまうことなどもあって、間もなく飽きてきたようだ。そうは言ってもスライド映写機などがなくても見たいときにはビデオを再生すればよかったから、しまい込んであるフイルムが登場する機会はますます減っていったようだ。

 そんな時、「デジタルフォトフレーム」なる商品が巷間を賑わすようになってきた。見かけはなんのことはないいわゆる「写真立て」であるが、写真に代って小さな液晶テレビと同じような画面がついていて、その商品に写真データを保存したメモリーを差し込むことで色々な写真が代わる代わる画面に表われてくるという代物である。
 パソコンに添付されているモニターを管理するソフトやデジタル写真の編集ソフトなどにも「スライドショー」と呼ばれる機能がついていて、同じような機能をパソコン画面でも表示でるようになっているけれど、この商品はそのスライドショーの機能に特化した製品とでも言うものである。もちろん表示する写真のデータ管理などにはパソコンがあると重宝するけれど、少なくとも写真立てとして利用するだけならパソコンの必要はない。

 ところでデジカメで撮影した画像データはすべてパソコン内に保存してあるし、フォトフレームで使うメモリーも私のパソコンに対応している。しかも最近のメモリーの価格は驚くほど廉価になってきている。それで早速数個のメモリーを購入し、パソコン内の写真データをいくつかのテーマに分類(例えば「花めぐり」、「ヨサコイソーラン」、「孫の成長」などなど)してコピーすることにした。データのコピーはデジタルデータにとっては朝飯前のことであり、ほどなく数枚のテーマ別メモリーが簡単に出来上がった。しかしまだフォトフレーム本体は未購入である。

 未購入の背景には、写真立てにどこまで利用価値があるのか、どこまで楽しめるのかなどの疑問があったからではあるけれど、写真と言うのは改めてアルバムを開くと言う手間をかけるのでもない限り、日常的にそれほど身近に眺める機会が多いものではない。
 ところで調べてみるとこうした写真立ては色々なメーカーから発売されており、価格も一万円前後と比較的安価である。トイレにでも置いて無聊を慰めるのも一興かと思いつくと俄然欲しくなってきた。それで目の前に近づいてきた妻の誕生祝いにこの商品を選ぶことにした。誕生日のプレゼントとしてこの商品がふさわしいと考えたと言うよりは私の興味が第一であり、ただその効用を妻と共用できるのではないかと思ったと言うのが正直なところかも知れない。

 トイレでの鑑賞は利用頻度や滞在時間などの面から、この装置はやがて茶の間に移ることになったけれど、液晶画面は色も鮮やかで再生の順番や表示の時間も任意に設定できるなど、けっこう楽しめることが分かってきた。
 パソコンに保存したデジタル画像はいつの間にか数千枚にもなっていたし、例えば孫の写真などはプリントして渡してしまえばそれっきり見ることが少なくなっていったことなどもあって、けっこう目新しく思えるような写真も多く、デジタルフォトフレームは思った以上に飽きのこない商品だった。

 だがそのうちどこか物足りないものを感じてきた。例えば孫の写真であるが、赤ん坊と言うかもっと幼い頃にも写真を撮った記憶があるのにそれが出てこないのである。それはそうだろう。私がデジカメを手にしたのは今から6〜7年ほど前からである。したがって私のパソコンにはそれ以降の写真データしか残っていないのである。つまりそれ以前の写真は、私が一生懸命撮ってはきたもののそれらはすべてフイルムだったと言うことである。
 それは花や旅行などの写真でも同様であった。一時期接写に凝ってマクロレンズや望遠レンズなどを抱えて山野めぐりをした記憶があるにもかかわらず、それらも一切出てこないのである。

 「アナログからデジタルへ」や「私の中のアナログ」でも書いたけれど、私のカメラ歴はけっこう古く、ネガフイルムやポジフイルムも散逸したものもあるけれど、けっこうな量が書棚の中で忘却にまみれたままになっている。そしてふと思いついたのである。それは、「フイルムスキャナー」なる装置を通すことで、フイルムデータがデジタルデータに変換できると言うことである。
 スキャナーは仕事の上でも例えば官庁への届出用紙などをそのままパソコンに取り込み、それに文字を追記して提出するなどに利用したり、紙写真を取り込んで顔の部分を任意のサイズに編集して投稿用の写真にするなどで利用していた。
 しかしそれはあくまで「紙画像の読み取り」装置であって、フイルムスキャナーはまだ持っていなかった。と言うよりは欲しいと思ってはいたのだが、ほんの少し前までこうした装置はかなり高価であり、しかもそのソフトをパソコンに取り込んだり設定したりするのはとても難しかったこともあって気後れ状態のままになっていたのである。

 ところがフイルムスキャナー専用に特化した商品が最近続々と、しかも安価で発売されるようになってきた。しかもパソコンを経由しないで直接メモリーに読み込めるような商品も出てきたのである。小さなモニター画面がついていて、ネガにもポジのフイルムにも対応しており、装置にメモリーを差込みフイルムをセットしてモニターで画像を確認しボタンを押す、それだけで瞬時にフイルムの映像がメモリーにデジタルデータとして保存されるのである。しかもかなり高画質の画像データであった。

 我が保存のネガフイルムはこうしてデジタルデータとしてとりあえず復活することになり、デジタルフォトフレームはかなり満足を与えてくれるようになった。さて残るはポジフイルムである。ネガ・ポジフイルムとも、現在はフイルムを使って写真を撮ることなどなくなってしまったから今以上に増えることはない。したがってフイルムスキャナーは手持ちのフイルムをデジタル化してしまえば無用の長物になってしまうから、ポジフイルムの変換が完了すれば用済みになる。それでも2000枚を超えるスライドマウントを処理するにはしばらくかかるだろうし、過去を懐かしみながらの作業もそれなり楽しみではある。

 おお、何たることか。ポジフイルムの画像はなぜか全体に赤いのである。どのフイルムも、どのフイルムも同じように赤っぽいのである。画像そのものがぴんぽけになっているわけではないけれど、色調だけが異様に赤に偏っているのである。はっきりとした原因は分からないけれど、それが経年による劣化であろうことは容易に想像がついた。マウントされたフイルムはバインダーや小さなプラスチックのケースに収蔵してあったけれど、撮影から既に数十年を経ている。その年月が知らず知らずに画像を変色させていたのである。ネガフイルムの方は特に劣化を感じることはなかったけれど、ポジフイルムは明らかに変色してしまっていたのである。

 そうした劣化を老化と同視するのはふさわしくないかも知れない。だが、40数年前の沖縄のサンゴ礁の白い砂浜や海の青も、東京での1年の研修で同室の仲間と訪れた谷川岳の青空と雲の景色も、深大寺で朝露に濡れた花びらを演出しようと霧吹きを持ちながらシャッターを切ったバラの映像も、どれもこれもが長い時の流れの中で「変色」という宿命を受け入れざるを得なくなっていたのである。

 デジタルデータそのものは時間の経過や複製の繰り返しなどによる劣化はないと言われている。もちろんデジタルデータと言ったところで、データそのものの劣化はないにしても保存してある媒体の劣化は避けられないだろうし、更にはそうした媒体や媒体を読み取る方法と言うか装置もまた時間の経過の中でいずれ時代遅れになっていくことだろう。私は持たなかったけれど、現に8ミリ映画などはビデオに取って代わられて映写機がなくなり再生が難しくなっていると聞いている。またカセットテープも少なくともこの事務所には再生装置がなく、テープの在庫は山ほど残っていながら聞くことはできなくなっている。恐らくビデオテープもそのうちに同じような運命をたどることだろう。ならば移し変えたデジタルフォトフレームのメモリーもやがて利用できなくなる時がくるのかも知れない。

 時は苛酷に物事を押し流していく。それは単に忘却と言う現象を超えて物体そのものの消滅につながっていくことでもある。
 それでも私は赤く変色したポジフイルムをせっせとメモリーに移し変えている。確かにその画像は色あせたものになっているけれど、それでも私の思いの中では沖縄のあの時のサンゴ礁の砂浜は今でも真っ白のままなのである。谷川岳の青空にくっきりと浮かぶ雲は今でも真っ白なままなのである。デジタルフォトフレームの画像がたとえ赤く変色していようとも、その画像はそうした時の経過を乗り越えて私にあの時の思い出を真っ直ぐに伝え続けてくれるであろう。私と一緒にデジタルもまた老いていくだろうけれど、たとえそれが私だけの記憶の中で補正された私だけの画像であろうとも、どっこいどうしてなかなか老いてはいかないのである。



                                     2010.1.27    佐々木利夫


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老いていくアナログ