世の中だんだん世知辛くなってきていわゆるベンチャービジネスなんぞも成功することはなかなか覚束ない時代になってきている。その原因の多くは資金の不足にあり、「ベンチャー」といいつつも、結果としてリスクを犯すだけの勇気というか、余裕がないことに尽きる。そうした状況に識者は、大きな資本でじっくり構えるのは大企業に任せベンチャーは「スキマを狙うべき」であり、「かゆいところに手が届く」事業に目を向ける必要があると説く(別稿「住み分けのなくなった時代」参照)。

 なるほど、そこに新たな消費者の選択の余地を求めることは理解できる。ただ、そうしてスキマをなくしていったら、人が自分で選択するという余地がどんどん狭まっていくことになってしまうのではないだろうか。恐らくスキマというのは、いくら埋めていってもなくなるということはなく、単に小さくなるだけなのかも知れない。だから人の欲望が続く限りスキマは永遠に存続する・・・。

 そうした思いが分からないではない。しかし、そうししたにスキマを埋めて行くことは、人の持っている自ら努力して開発するという知恵や力を削いでしまうことにならないだろうか。それとも現代は、並の人間が生活していくには人知の限界を超えてしまっていて、「必要は発明の母」なんぞと言う昔ながらの努力ではとても追いついていけないような時代になってしまっているということなのだろうか。

 2ヶ月ほど前になるが、テレビで赤ちゃん連れの旅行や映画などの企画が売れているとのニュースを見た。企画した側はお母さんたちが「楽しむことを諦めなくなってきた」し、「諦めなくてもいいと思うようになってきた」と自画自賛だし、若いお母さんも「そうだ、そうだ」と満面の笑みである。つまり、育児は旅行や映画の障害になっていてそれを諦めていると母親自身が認識していると言うのである。
 育児がどんな場合も楽しいなどと言うつもりはない。夜鳴きやおむつ交換や授乳など、昼夜を問わずに保護を求める乳幼児に対して、時に息抜きをしたいと思う気持ちを非常識だとも思わない。

 それでも私は思うのである。いつの間に育児はストレスと言う地位をこんなにもしっかりと確保し、誰も助けてくれない子育ては児童虐待の正当な理由を示す言い訳になってしまったのだろうかと・・・。
 そうしてそうしたストレスのすき間を狙うかのように、こうした旅行や映画や食事会のなどの企画が商品として開発され発売されるようなってきた。

 「昔からお母親はそうした育児の苦労を重ねてきたんだから、今の若いお母さんたちもその通りにやるべきだ」などと説教するつもりはない。しかしそれでも育児ノイローゼと言う語がいつの間にか世の中に定着し、児童虐待やネグレクトに対するもっともらしい言い訳になってしまっている状況はどこか変である。

 人はいつの間に、育児にまで我慢する心を失ってしまったのだろうか。少し我慢する、そんな心のゆとりを置き去りにしまったのだろうか。欲望を満足させることだけが時代の進歩であり、我慢させたり制限したりすることはどんな場合も悪だとする世の中に、人はいつの間に巻き込まれ慣れ切ってしまったのだろうか。私にはそんな母親の姿がそのまま赤ん坊と同じであるように思えてならない。赤ん坊が自分の願望が叶えられるまで泣き続けるのと同じように、母親もまた他者に対して「自分の今をなんとかしてくれ」と叫び、「自分でなんとかしよう」だとか「もう少し我慢してみよう」などと言った心を失ってしまっている。

 今の時代の若者を「おぜん立て世代」だと言う説がある(2010.3.18、朝日新聞)。その説明によれば、最近の若者は「正解を探すスキルは高いが、自分なりに考える力が弱い」し、「ゴールを明確にしてあげないと動けない」のだそうである。つまり「やる気を出させてくれそうな上司」や「自分に適した役割や経験の場を与えてくれそうな上司」を望んでいると言うのである。

 こうした傾向はまさに「成功まっしぐら」こそが人生であり、「正解以外の道を探ることは無駄だから、寄り道はしたくない」みたいな感情で自らの将来を律しようと考えているということでもあろうか。そうした生き方を持つ人の辞書には、「試行錯誤」という言葉は始めから存在していないということなのかも知れない。

 だからこそ正解への最短の道筋を示す「ノーハウ本」であるとか、最短距離で正解に届くようなサービスの提供を求めることになるのかも知れない。こうした若者には最初から「間違いから学ぶ」と言う発想がない。だから、正解を指導してくれる本やサービスや上司や家族や先輩などと言った、自分を見守ってくれる取り巻きのいない環境にぶつかると、自らの力では身動きができなくなってしまうのかも知れない。
 こうした傾向は例えば昔から言われている「指示待ち人間」だとか「くれない族」(別稿「変貌するくれない族」参照)などの若者論にもつながっていくのかも知れないけれど、指示を待ちながら途方に暮れて悩んでいるのならまだしも、おぜん立てのされている状態に満足しそれが「当たり前の私の人生だ」などと達観してしまうような若者が増えていくのだとしたら、日本のこれからはどうなっていくのだろうか。

 そうした状況の発生はもしかしたら「おぜん立て」をした者の責任であり、上げ膳据え膳の状態になることを「すき間を埋める」などと称して作り上げてきた大人たちの責任なのかも知れない。子はいずれ親になる。親になるために必要なことはなにか。簡単である。時間だけである。時が経てば、どんな子もいずれ親になる。そしてその親は恐らく自分の生きてきた道そのままに我が子を育てていくことだろう。そんな親が既に巷に溢れ始めている。「私だけを満足させよ」、「それに反することはすべて悪であり、その責めは社会や他者にある」、「どうして誰も私のかゆい背中を優しく掻いてくれないのか、そんな冷たい仕打ちは許せない」・・・、そうした怨嗟の声がいまや街中に広がりつつあるように思えてならない。

 特効薬はあるのか。恐らくない。これまで蔓延してしまった依存がそんなに簡単に直せる手段があるとは思えない。それでももしかしたら、たった一つだけ効き目は遅いかも知れないけれど、効きそうに思える方法がないではない。それは何か。

 「ダメなものはダメ」、そんな風に思う心である。説得ではなく自らの直感を信じる心である。そして伝える心である。嫌われても言い続ける心と勇気である。良くはならないかも知れない。でも少なくとも今以上に悪くなることは・・・ない。



                                     2010.4.10    佐々木利夫


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