今年2月末に南米チリを襲ったM8.8の大地震は、震源地での被害は当然のことながら、地球の反対側ともいえる日本にまでその影響を与えた。到達に約24時間ほどかかると言われた津波について、日本の太平洋沿沿岸全域に津波警報、特に三陸海岸には17年ぶりの大津波警報が出され、マスコミも行政も「来るぞ、来るぞ」の大合唱だった。
しかし、実際に到達した津波の規模は気象庁の予報を大きく下回り、人命に影響を与えるような事態は起きず、これに呼応するように住民の非難率も3.8%の低いレベルに止まったと伝えられている(2010.3.20前後の新聞・テレビ)。
こうした状況について、多くのマスコミや識者、それに政府などからも「警報の過大さには問題がないけれど、避難の低さ、つまり危機意識の低さが問題だ」との意見が多く見られた。警報の規模が仮に過大だったとしても、避難さえしていれば被害を受ける恐れは少なくなるのだからそれはそれでいいではないかとの気持ちの分からないではない。しかし本当にそれでいいのだろうか。私はそうした考え方そのものが誤りだと言いたいのではないけれど、どこかでそうした情報の発信者が持つ一種の専門馬鹿の思い込みみたいなものが隠されているように思えて気になって仕方がなかったのである。
こうした傾向は別に津波警報のみに係わることではない。台風にしろ、洪水や火災にしろ、避難やそのための準備などを促す警報は様々な場面で出されるが、私はそのたびにその警報の発信者は台風だけ、火災だけそれしか見ていないのではないだろうかと思えてならないのである。多数を対象にした警報は、津波だけに限るものではない。災害以外にだって、世の中はいたるところ警報にまみれているからである。
電話の着信音が鳴る。受話器の近くには「オレオレ詐欺かも知れないので相手を確かめろ」との張り紙をしておかなければならない。玄関のチャイムが鳴る。それはシロアリや浸水などによる土台の修繕を勧誘する悪質リフォーム業者かも知れない。もちろん地震に対しても常に避難場所のチエックや退避に当たって必要な備蓄などの用意をしておかなければならない。テレビでは癌や脳卒中や高血圧・糖尿病などが見ている全部の人たちの目の前に迫っているとの脅迫が続いているし、読書や老人学級や近隣とのコミュニケーションなどを日常的に訓練しておかないとボケが来たり孤独死する恐れがあるそうだ。スーパーでの買い物には製造年月日や原産地や食品添加物の内容をチエックしなければならないし、地デジ対応していないテレビはすぐにも見られなくなるとせっつかれている。
自己責任という言葉はいかにも格好がいいけれど、天気予報なども含めて世の中警報だらけなのである。そうした慢性化した警報の渦の中で私たちは毎日を暮らしているのである。しかもそうした警報の一つ一つに、「何を、どうしなければならないか」などと言ったたくさんの事柄が自己責任としてつながっているのである。
地震の警報が出た。さてどうする。ストーブの始末か、やかんをかけたままのガスの始末はどうするのか。玄関のドアはとりあえず開けるのか、避難用の荷物はどこに置いてあるのか。その前に机の下に逃げ込むのが先か。自宅ならどこへ逃げるのか。スーパーで買い物中だったらどこへ避難するのか。もし地下街だったら・・・。食料品は持っていくのか。子供や病気の親はどうするのか。避難場所への道筋はどうだったか。避難したとして仕事はどうなるのかなどなど・・・。たった一つの地震にだって、数え切れないほどの考えなければならないことが山積しているのである。
それに対して避難警報はたった一つの発信だけしかない。「津波が来るぞ、逃げろ」だけなのである。「台風が近づいている警戒せよ」ですべてが終るのである。それで警報を発した側は、完結してしまうのである。もちろん避難場所確保したり、場合によっては暖房や食事や宿泊などの手配も必要になるとは思うけれど、警報を発した側は警報を発したことだけに満足してしまい、受けて側がどんな気持ちでその警報を聞いているのかをまるで理解していないように思えてならない。
警報には警報に伴う様々な対応が受信者に求められる一方、発信側にも同様な対応が求められていると思うのである。津波の警報に対して避難者がこんなにも少なかったということは、警報そのものに警報としての意味が持たせられていなかったということなのである。警報が単なる情報の垂れ流しにしかなっていないということの表れなのである(別稿「
垂れ流しの警報・注意報」、「
無視される警告」参照)。
それにもかかわらず情報の発信者やマスコミや識者までもが、警報の過大さよりも受け手側の危機意識が問題だなどと言い募っているのは、どこか傲慢なような気がしてならない。
今回のチリ地震の津波警報はまさに17年ぶりの大警報だったにもかかわらず、ほとんどの人がそれを聞き流し、無視してしまった。私はこの原因はやはり予報と結果とのブレの大きさが背景にあるのだと思う。予報なのだから多少のブレが生ずることは避けられないだろう。ところが仮に今回の津波警報に限るならば、避難者が一人もいなかったとしてもそれで死者が出るような深刻な事態にはならなかったのである。それにもかかわらず警報は「大津波」だったのである。
この事実だけにこだわるわけではない。台風や河川の氾濫などでも、予報と実際とのブレはあまりにも大きすぎる。つまり、過大警報に人々は慣れっこになってしまっているのである。予報を信じなくなっているのである。またいつもの警報どおりそれほどの被害がないまま通り過ぎていくと思っているのである。そのことを受信者の責めに帰していいものなのだろうか。当たらない警報を出し続け、「過大な警報であってもとにかく出したのだから後は聞いた方の自己責任」と開き直っている側に何の責任もないのだろうか。
こんな言い方は「避難」本来の意味からするなら荒唐無稽かも知れないけれど、もし仮に過大警報のほうが現実的に望ましいのだとするなら、「避難場所での生活」が日常生活よりも楽しいものだったらどうだろうか。また、警報がある基準を外れた場合には、その警報に従って避難した人たちに対して「外れて迷惑かけました。ごめんなさい報酬」みたいなものを支給するなんてのはどうだろうか。避難指示が実効性を持たない背景には、もちろん警報の信用の低さが大きく影響しているとは思うけれど、現状がその低さをカバーできないのであればその低さに代る何かを警報に付加することはできないものなのだろうか。
警報の不信には、「言われている内容よりもそれほど大きな被害を与えることはないだろう」との思い込みがあるからだろう。そしてそれに拍車をかけるのが「避難するのが面倒くさい」にあるような気がしている。結果的に空振りになるのなら、「家でのんびりテレビでも見ていたほうがマシ」だとの思いが強くあるのではないだろうか。そんなときに発信者が警報の精度を上げるための努力をせず、単に受信者の「面倒くささ」だけを危機意識の不足と名づけて責めるだけでは何の解決にもならないのではないだろうか。
自己責任の意味するものが「自分の身は自分で守れ」にあることを否定するわけではないけれど、私たちの身の回りにはあまりにも自己責任が氾濫しすぎている。自己責任にある種の限界を設けるような発想は、本来の自己責任が持っている意味とは矛盾するかも知れないけれど、危機意識のみに限らず人はそんなに万能ではないように思うのである。「横着による不利益は結局自分ひとりが負うことになる」などと言ってしまうのはたやすいけれど、そうした危機意識の喪失を生んだ最大の原因はもしかしたら警報の発信者にあるのかも知れないことをもう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。
2010.4.1 佐々木利夫
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