8月が近づいてきて、戦争の話題がテレビにも新聞にも少しずつ増えてきている。戦後65年、なんと平和な日本の続いてきたことか。戦争を知らないまま生まれ戦争を知らないまま死んでいく幸せが、日本では今や当たり前になっている。そのことを幸せと呼んでいいのか、はたまた平和ボケとでも名づけて生きていることの本当の意味を理解していない中途半端な思いと位置づけるべきかは難しいところかも知れないけれど、それでも日本人のほとんどが戦争を知らない世代に突入していることは事実である。

 このエッセイと一緒に発表した「英雄ポロネーズ」も、はからずも「祖国」そして戦争につながるものになった。書いた動機はもちろんこの曲を聴いたからではあるのだが、例えばシベリウスのフインランディアが急に聴きたくなったり、不意にベートーベンの第九のコーラスに浸りたいと思うような時が訪れたりするのは、心のどこかにそうした曲への特別な思いがあり、そこへ我が身をたゆとわせたいとする思いが潜んでいるからなのかも知れない。

 少し古いデータになるが、総務省が2008年10月1日の推計日本人口を分析した新聞記事を読んだことがある('09.4.17 朝日)。それによると、1945年8月15日(つまり終戦の日)以降に生まれた日本人は9,645万6千人になり、在日外国人を含めた総人口の75.5%になったそうである。この記事は、戦後生まれが50%を超えたのが1976年であることも同時に報じていた。恐らくこれに類似した記事は戦後65年の節目である今年、間もなく迎える8月15日に向けて報道されることだろう。

 日本の戦争が、天皇の詔勅のあった8月15日に突然終ったわけではない。もちろん終戦の詔勅が戦争の一つの区切りではあっただろうけれど、世界中の戦地に散らばっていた日本兵や捕虜、満州や韓国などへ移民していた者の帰国、更には焦土と化した国の再建や食糧難対策などなど、それは戦後処理と名づけられるべき事柄であったかも知れないけれど、戦争はまだまだ続いたままだったのである。

 ともあれ8月15日が「徴兵」というイメージから国民が開放されることになった日であることだけは間違いがないだろう。ただ私には、戦後生まれの人口が総人口の75.5%、4人に3人にもなったことにどこか違和感と言うか不安と言うかを感じてしまったのである。日本人の4人に3人が戦争を知らない、このことはまさにそれだけの期間、日本が戦争を経験してこなかったことの証左でもある。
 ならばそれはとても喜ばしいことであり日本として誇るべきことではないか、と思わないではない。世界中の誰もが戦争に反対しているのだから、一つの民族の中で戦争を知らない世代がそんなにも続いている日本の存在は世界に誇っていいではないかとも・・・。

 だが世界から戦争が消えてしまったわけではない。何の根拠もなしに感触だけでこんな言い方をするのは私らしくないと思うけれど、米ソ冷戦の時代よりも現代のほうが民族対立なども含めて戦争は世界中に飛び火し、拡大していっているのではないだろうか。
 テロや政権や民族を背景とした内乱、宗教対立や経済格差への反発などなど、一つの暴力をどの時点から戦争と呼ぶべきかについて私にはまるで知識がない。ただ、ある国における少数民族に対する圧政や反対勢力への鎮圧行動、更には独立運動などについてだって、国連の介入に内政干渉だと抗議してそのまま放置されてしまうことなども含めて、一方が他方を支配する構図は世界中に満ち満ちているのではないだろうか。

 世界のどの国も現在進行形で戦争が続いている、こんな風に言い切ってしまったらそれは間違いになるのだろうか。確かに日本はこの65年間一度も戦争を経験することはなかった。それは事実である。もちろんそうした背景には、アメリカと結んだ安保条約であるとか日本政府の外交のしたたかさ、更には高度経済成長に伴う金払いの良さからくる世界各国へのばらまきのような政策なども関係していることだろう。

 ただ私には、今ある日本の状態をあっさりと平和と呼んでしまっていいのかどうか、どこかで引っかかってしまうのである。戦争がなかったことは事実なのだが、そうした状態を果たしてあっけらかんと平和と名づけてしまっていいのだろうかと思えてならないのである。
 そう考える背景には、日本人はこれまで「平和のための努力」を何一つしてこなかったのではないかとの私の思いがある。つまり日本人は「戦争のない状態」に安穏として漂ってきただけで、「自らの力で平和を作り上げる」ような努力をほとんどしてこなかったのではないかとの思いでもある。

 だからと言って私は、日本も軍備を持つべきだとか徴兵制度を復活すべきだと言いたいのではない。だが戦争を知らない世代が同時に日本を祖国としても認識していないような状態を知るにつけ、私たちの抱いている平和への考え方がどこか歪んでいるのではないかと思えてならないのである。

 私たちはいつの間にか「誰かがなんとかしてくれる」ことに安住し過ぎて、「自分でなんとかする」ことの意味を忘れてしまっているのではないだろうか。日本の若者と祖国に関するこうした思いは以前にも書いたことがあるけれど(別稿「戦争と若者」参照)、今や草食系だのイケメンだのがもてはやされる時代になった。闘うことや勝ち取ること、そして我慢したり努力することの意味を多くの人がどこかへ置き忘れてしまっているかのような状況が続いている。そうした今の状態を私には、「それが平和なのだ」と単純には言い切れないように思えてならないのである。



                                     2010.7.29   佐々木利夫


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