和解については税金との関係について先週書いたばかりだが(別稿「
税金と和解」参照)、書いている最中にB型肝炎訴訟を巡る原告と被告(国)との和解交渉の経過が報じられた。
前稿で「税法に和解なし」と書いたばかりだけれど、「裁判所は、訴訟がいかなる程度にあるかを問わず、和解を試み・・・させることができる」(民事訴訟法89条)のだから、裁判官が原告被告両者に和解を試みることは当然のことだろう。今回のB型肝炎に関する訴訟は全国で起こされているが、札幌地裁で今年(2010年)3月に初の和解勧告がなされ7月6日に和解案が示された。
私はその内容についてとやかく言いたいのではない。こんな風に言ってしまうとその関心のなさに原告団やその関係者は悲観してしまうかも知れないけれど、私はこの事件については新聞やテレビで報道されていることくらいしか知らないので、どちらかと言えば丸っきりの門外漢である。
ただ国からの和解案の提示を受けた原告団の反応にどこか納得できないものを感じてしまった。この訴訟は、乳幼児期に国が行った集団予防接種で注射器が使い回しされ、それが原因でB型肝炎ウィルスに感染しやがて発症したのでその損害や治療費などを弁償せよとの主張が基本である。
ところで肝炎に関しては2009年に「肝炎対策基本法」が制定されているけれど、この法律は国が将来的に肝炎の予防や治療に関してどんな姿勢で国民に向き合っていくかの方針を示したもので、過去の肝炎被害者に対する賠償などを定めたものではない。このB型肝炎訴訟はこの法律では賠償を求めることはできないと判断した原告が、国に対する国家賠償法による賠償請求として提起されたものである。
さて国家賠償法はその第一条一項で「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うにについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、・・・これを賠償する責に任ずる」と定めている。
ここで明らかなことは、「故意又は過失による公権力の行使によって生じた損害」が国による賠償の対象とされていることである。予防接種が仮に接種者や親権者などの任意の希望に基づくものであったにしても公権力の行使に当たることは認めてもいいだろうし、B型肝炎に罹患したことが治療費や慰謝料などを含めて損害の発生であることにも異論はない。
だがその責を国に負わせるためには、国の行為に「故意または過失」のあることが要件とされていることは条文上明らかである。まさにこの点が国家賠償法における賠償の基本なのである(同法2条は河川や道路の設置に関して瑕疵を起因とする賠償も認めているが、この規定は本件とは別異であるのでここでは触れない)。
だから私はまさにこの点と更には国家賠償の意味について原告団の主張がどこか的外れになっているのではないか、もっと言うなら身勝手な言い分になっているのではないかについてどうにも気になってしまったのである。
第一は国に故意または過失があったことについての原告の主張、証明がされていないように思えてならないことである。国家賠償法は明確に国における故意又は過失を要件として求めているにもかかわらず、その法律に基づいて賠償を求めているはずの原告が、何一つとしてその証明をしていないのである。確かにその証明をすることの困難であろうことを否定はしない。理屈から言えば「集団予防接種を受けたこと」、「その接種に当たり注射器が使い回しされたこと」、「その使い回しが原因でB型肝炎を発症したこと」を主張し立証しなければならないからである。
B型肝炎に罹患していることについては血液検査などで容易に立証することができるだろう。まさに罹患しているからこそこうした訴訟提起になっただろうからである。しかしその前提となる二つの要件の立証はかなり難しいといえる。ただ注射器の使い回しについては、国による禁止の指導があったにもかかわらずその当時、必ずしもきちんと守られていなかった可能性が高かったことにかんがみ、国はその立証を要求しないこととした。
さて残るは集団予防接種を受けたかどうかである。B型肝炎発症の原因が予防接種に限られるならぱこの点についても立証の必要はないだろう。だが現実には予防接種以外にも、例えば母親が感染していて出産した子が感染している場合(母子感染)、検査が不十分で肝炎ウイルスに感染した血液を輸血されてしまった場合、父親や家族の唾液などを通じて感染した場合(家族内感染)、性行為による感染などもある。またケースとはしては少ないかも知れないけれど、ピアスの穴あけや入れ墨や覚せい剤の回し打ちなど(7.8、朝日新聞)でもB型肝炎に感染する可能性があり、その経路は非常に多岐にわたるのである。
私は予防接種以外の原因による感染者を救済しなくてもいいなどと言いたいのではない。感染によって苦しんでいる現実を、国が放置してもかまわないとも思わない。ただ私は国家賠償法による損害賠償請求として、しかも法律の要件として国による故意過失が求められているにもかかわらずそれを立証しないまま賠償を求めることの矛盾を言っているのである。
生活に苦しんでいる者などに対して、セーフティネットとして生活保護や医療扶助などを行うことは、いかに憲法がプログラム規定だとしても基本的人権の一つとして救済すべき国の責務である。それは過失があるとかないとかのレベルを超えた国の国民に対する責務だと思うからである。ただそれは別にB型肝炎患者の救済のみに限るものではないだろう。がん患者にだって、身体や精神に障害のある者にだって、犯罪被害者やその家族、意に沿わない雇用関係などに虐げられている者たちなどなど、救済すべき程度の差はあるだろうしどこまで支援すべきかも難しいとは思うけれど、国が支援しなければならない人たちは多数存在すると思うのである。
B型肝炎患者は「私たちはそれとは違う、もっと特別の支援なり損害の補填が必要なのだ」と主張するかも知れない。だからこそ国家賠償法を下にその特別な賠償を求めているのだろう。それも理屈として分からないではない。だとすれば原告は「故意又は過失」を立証すべきではないだろうか。仮にそうでないするなら国家賠償法によるのではなく、別の法律による賠償請求かそれとも「国のB型肝炎に関する無過失責任賠償」を規定するような法律の制定を求める運動へと向かうべきだと思うのである。
立法は国会の専権事項ではあるが、その背景には国民の承認がある。国民が総意として国の責任の有無に係わらずすべてのB型肝炎患者に対して補償を認めるような立法を認めるのなら、それはそれで法治国家として承認しなればならないだろう。それが国民の意思だからある。
だが今問題としているのは国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟である。その訴訟に対して原告団の一人でもある弁護士が「証拠は国が提出すべきである」(7.7、朝日新聞)と述べたり、「集団予防接種は国が全国民に実施、注射器の使い回しが感染原因ということは明白、原告側に立証責任はない」(同日、同紙)などと言い募るなどは法律を頭から無視した身勝手な主張になっていると私には思えるのである。
国は今回の和解案で@B型肝炎ウイルスに感染していること、A6歳頃までに予防接種を受けたこと(母子手帳または代替証拠で)、B母子感染でないこと(母親の血液検査結果または兄姉の一人が未感染であること)、C輸血や手術による感染でないこと(過去のカルテなど)、D父子感染でないこと(父死亡の場合は立証不要)、E大人になってからの感染でないことをウィルスの遺伝子で確認、の証明方法を提示した。
それにも係わらず原告団はまるで国に無過失責任を求めるかのような主張を繰り返していることは、法治国家における訴訟形態としてはどこか異常に思えてならない。
さてもう一つ、私には原告側は被告が国であることの意味についてもどこか混乱があるように思えてならない。そのことの意味については以前にもここへ書いたことがあるので繰り返さないけれど(別稿「
控訴断念要求」参照)、国への損害賠償とは国民が納付した税金からの支払いを求めていることと同義である。国が日銀で自由に札びらを印刷して支払えばいいのとは違うのである。原告は国民に向かって税金から賠償金を支払えと要求していることの意味をきちんと理解してほしいのである。国の持つ権力そのものを悪と位置づけ、そこから金をむしり取ることで「勝った、勝った」と叫ぶことはどこか本末転倒である。
厚生省は行政機関として当然に国民のために行動しなければならない。その国民とは決してB型肝炎感染者に限るのではなく、国民全体なのである。損害賠償金として和解金として税金を使うのが正しいのかどうか、そこのところをしっかりと把握しなければならないと思うのである。仮に故意もなく過失もないにもかかわらずなされている理不尽な請求なのだとしたら、行政はまさに全国民のために断固として支払いを拒否することが求められていると思うからである。
中途半端な考えで原告と妥協するなど決してあってはならない。妥協のときだけ「血税」のイメージから離脱して、あたかも「国の金は行政の自由に使える金」みたいないい加減な姿勢で原告と妥協してもらっては困るのである。そんな妥協は間違いなのである。和解協議においても、更には敗訴した場合の控訴や上告についても、そうした点を行政はきちんと理解し、毅然とした態度で原告に向き合って欲しいのである。闘うべきはとことん闘う、それもまた国民に対する行政としての重要な責務であると思うからである。
2010.7.13 佐々木利夫
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