飼ってる犬や金魚に対して、たとえば「エサをあげる」と言うのは変じゃないかと書いたのはかなり昔のことだ(別稿「餌をあげる」、「『餌をあげる』ふたたび・・・」参照)。そしてそんなことを書いたすぐ後で友人から、あんたの言うことが分からないではないけれど、そんなこと言っちまったら「ペットは我が命」みたいに思っている飼い主は山ほどいて、その人たちのほとんどは心から「餌はあげるものだ」と思っていると反論された記憶がある。まあ、自分の赤ん坊に母乳を含ませることに、「お乳をあげる」と言ってもそれほど不自然でなく感じるようになってきているので、赤ん坊とペットを並列に考えても、「それはそれでまあいいっか」と思わないでもない。

 それでもテレビなどで餌などについて「あげる」が使われるたびにどこかで違和感を抱かされてきた。それがつい先日の新聞紙上にこんな広告が載っていて、「あげる」の使い方もとうとうここまで来てしまったかと、いささか驚いたのであった。それはこんな広告であった(朝日新聞、2011.7.2)。

 「がんと闘うすべての患者さん、ご家族を応援し続けます。
 ・・・がん細胞は患者さんごとに異なる顔をしています。また、それを攻撃する免疫細胞にも○○細胞、△△細胞、××細胞などいろいろな種類があり、各々異なる機能、役割を持っています。『このがん細胞を攻撃するには、どの免疫細胞をどのように強化してあげればよいのか?』という最適化の視点が重要です。・・・」

 この広告での使い方が、「餌をあげる」における「あげる」の意味とは少し違っているのではないか、同列に論ずるのは勇み足にならないか、と思わないでもない。餌を与えるのと細胞を強化するのとは同じ意味ではないのかも知れないとも感じるからである。それは「餌をあげる」は飼い主からペットへの一方的な一種の恩恵であるのに対し、この広告での使い方の「免疫細胞の強化」は免疫細胞に向って言う恩恵の言葉ではなく、免疫細胞の強化によって恩恵を受けるであろうがん患者やその家族へのメッセージだと思うからである。

 そのあたりは日本語論にも言語学にもまるで素人の私にきちんと整理できているわけではない。それでも、「細胞をどのように強化すればよいのか」とか「細胞をどのように強化していけばよいのか」と表現すればいいのではないか、との思いからなかなか抜け切れないのである。つまり細胞に対して「強化してあげる」のよう使い方、つまりわざわざ自らをヘリくだすような丁寧語とも謙譲語とも言える使いかたをする必然性がどこにあるのかが理解できないと言うことでもある。

 この広告では「患者さん」と表示しているからこの点での異論は特にないのだが、一時「患者様」との呼びかけがいたるところで流行して、敬称でありながらどこか馬鹿にされているような気がしたものである。現在でも患者様を使っている医療機関があちこちに見られるけれど、そうした「患者」に様をつけて呼ぶようなどこか過剰な尊敬表示、もしかしたら相手をとにかく持ち上げておけば問題が少ないだろうとする軽薄な意識が、ここで取り上げた「あげる」にも現れているのかも知れない。

 それともこの「あげる」の意味は免疫細胞に対しての言葉ではなく、もしかしたら「あなたの免疫細胞」と言う一つの複合語に対するものなのかも知れない。つまり広告主が強化したいと願っているのは、具体的には「免疫細胞」ではあるけれどその意味するところはがん患者自身が体内に持っている細胞、特定の個人に特化した「免疫細胞」なのかも知れない。
 だとすれば「あげる」が掛かる言葉はむしろ「あなたの細胞」であることになる。そうするとこの広告の表現は対象とする主語を誤ったのであり、むしろ「・・・あなたの持っているそれぞれの免疫細胞をどのように強化してあげればよいのか?」と表現すべきだったのではないだろうか。それともやっぱりこの広告どおり、「免疫細胞」に対して「強化してあげる」と呼びかけたのであろうか。

 日本語に限らず言葉はいつも変化していくことだろう。そしてそれは時に誤解されたまま日常に溶け込んでいくことだってあるだろう。それを誤用と呼ぶか、解釈する者の単なる誤解と解するかはとても難しいことだろうけれど、変化とは変化し続けることそのものでもある。だとすれば仮にその途中経過を勝手にちょん切って、ああだこうだと批判することにもどこか抵抗はある。「あげる」の使い方だって、ペットの飼育がこんなにも普及している環境の下では少しずつ言葉の持つ尊敬や謙譲の意味が薄れてきて、「与える」、「やる」と同じようになっていくのかも知れない。また逆にペットへの愛玩の意識が、対象への尊敬や謙譲になる程度にまで高まってきていることだって考えられる。

 言葉は常に変化し、対象となる相手との相対的な距離感も時代によって少しずつ異なってきているのだから、使い方に対する評価もまた変化していくのかも知れない。それはそうだと思うけれど、変化の評価を単純に時間の流れに任せてしまっていいのだろうかとの疑問も同時に湧いてくる。だからと言ってそうしたブレーキの役目を、例えば教育だとか政治などに丸投げしてしまうことにも抵抗はあるのだが・・・。



                                     2011.7.8   佐々木利夫


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またまた「あげる」論