このペンネームは私が高校時代から数年間使っていたものである。なんと傲慢で気恥ずかしいネーミングだろうとは思うけれど、17歳の思い上がった文学青年もどきの男にそんな思いの通じるはずもなかった。この名前を作り上げたのは、当時読んでいた哲学者の名前からの盗用であった。しかも二人からである。

 一人は阿部次郎である。どんな動機があって彼の著作に触れたのかまるで覚えていないが、17歳・高校2年生の私は彼の「合本 三太郎の日記」にすっかりはまってしまった(別稿「17歳の一冊」参照)。当時の私に彼の著作が理解できたとは思わないし、今読み返してもそれほど理解が進んでいないことが分かる。つまり、私には哲学などそもそも理解する素質がなかったのかも知れない。それでも三木清だとかカント、ニーチェ、キエルケゴールなど分からないままに読み漁り、文庫本の哲学事典を常にかばんに入れて持ち歩く日常だった。その阿部次郎からペンネーム最初の「阿」の一文字を剽窃したのである。

 二人目は小宮豊隆である。彼のことを私はまるで知らなかった。昭和28年初版本「昭和文学全集25」(角川書店)が書棚の奥に眠っている。他にこの全集の仲間が数冊そんざいしているから、この一冊だけを古本屋などから買ってきたのではないだろう。私が生まれたのは昭和15年だから初版の昭和28年は13歳であり中学1年生である。そんな幼い私にこんな本に興味があったとは思えない。この全集の25巻目は「阿部次郎、小宮豊隆、木下杢太郎」の三人が一冊にまとめられている。13歳の私にとって、この三人の名前など知ることはなかっただろう。どうしてこの本が私の手元にあるのだろうか。

 そう言えば「憂愁の哲理」(キェルケゴール)だの「懺悔録」(トルストイ)など、私には似つかわしくない古びた本が今でも書棚に残っている。きっと本好きだった中学生の私に、近所のおじさんかお兄さんかが読めと言って渡してくれたのかも知れない。とにかく高校生になって阿部次郎にはまり、それに昭和文学全集25が重なった。心酔する阿部次郎と同じ本に同居している小宮豊隆なる人物も、きっと著名な哲学者なのだろうと私は考えたに違いない。
 目の前に著作があるのだから読めばいいはずなのだが、私は小宮豊隆を読んだような気はまるでしていない。全集の一冊にまとめられた三人はきっと仲間みたいなものだろうとの感覚で、私はこの小宮から二文字目の「宮」をとって阿部次郎につなげた。

 かくしてペンネームの「阿宮」は決まった。次は名前である。なんたって哲学に向かおうとしている若者の初めてのペンネームである。それらしく毅然とした命名が必要である。自分の実名だとかそこいらにいる仲間の名前ではどうしたって哲学者らしくないし、映画スターや小説家の名前もしっくりこない。第一、「姓」も「名」も他人から盗んだのではどことなく威厳が落ちるのではないか、と17歳は考えた。

 そして哲学者を象徴する一言に「孤独」があると考えた。私の抱いた哲学は恐らく誰にも理解できないほど崇高な学問であり、哲学者はその分だけ孤高にいるのではないか、そんな思いがあったのではないだろうか。そして孤独の「孤」が決まった。次いで「孤」に似た「狐」が浮かんだ。「こ・こ」との呼び名は落ち着きが悪いけれど、狸や犬猫ではどうも厳しさに足りないしどこか親しみがあって哲学青年の名にはふさわしくない。だからと言って「ライオン」や「象」もしっくりこない。狐はずるがしこさのイメージはあるけれど、どことなく孤独な獣のイメージがある。

 そんな気持ちで私のペンネームは決まったような気がしている。なんと自惚れの強い、なんと傲慢な思いだろうと思うけれど、17歳の哲学者を目指そうとした青年の頭にはそうした気恥ずかしさは届かなかったようである。

 このペンネームでの発表はどのくらい続いただろうか。高校を卒業し、私は税務職員への道を選んだ。その数年間に私は2つの同人誌を経験した。わら半紙にガリ版で印刷し、それに少し厚い紙の表紙をつけただけのお粗末な同人誌であった。夕張の高校で学び、夕張の税務署での勤務であった。青臭いままの青年は、時に「パルタイ何するものぞ」(別稿「倉橋由美子が死んだ」参照)の気概もないではなかったし、就職後も哲学への夢を捨てたわけでもなかった。

 それでも夕張から数年で稚内へと転勤になったことで、私の文学や哲学への夢はとたんに途切れてしまった。それは夢の喪失といったような観念的なものではなく、恐らく二十歳を過ぎて酒の味を覚えたこと、仕事もそれなり任されて責任が重くなってきたことなどの世俗が重なってきたからだろう。
 しかも税務の職場はどちらかと言うと閉鎖的である。転勤という見知らぬ土地での勤務のせいもあるけれど、土地の人間と職業を離れて仲良しになることはとても難しい。稚内にも同人誌はあっただろうけれど、二十歳そこそこでありながら税務職員として一人前の権限が与えられ、外に対してはそれらしい仕事師としての顔を持たなければならなくなってきた男は仕事人間へと変身していったのである。

 この転勤を契機に私は同人誌から無縁になった。時々職場の広報誌などに投稿をする機会があったけれど、そこにペーネームを使うことはなかった。その広報誌は北海道全域の職員に配られるいわゆる身内の情報誌だったから、ペンネームを使うことそのものが無意味になったとも言える。
 かくしてペンネーム阿宮孤狐は、二十数歳にして私の前から完全に姿を消した。つまりはそれ以降小説を書いたり哲学論文を発表するような機会は皆無だったし、どちらかと言うならそうした機会を自ら放棄したことでもあったからである。

 これで私のペーネームにまつわる話は終わりである。恐らくこれからもこの名を使うことなど決してないだろう。それでも本棚の奥から埃にまみれ黄色に変色した本が見つかり、その本に蔵書印の代わりかのようにこのペーネームがサインされているのを見つける時がある。そんな時には、気恥ずかしさはそのままだけれどどこかで哲学にかぶれようとしていた青い自分を思い出し、懐かしむ気持ちも涌いてくるのである。



                                     2011.1.28    佐々木利夫


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