3.11の東日本大震災に伴う福島第一原発の崩壊による放射能汚染は、近隣の野菜や周辺地区の飲料水にとどまらず、とうとう牛肉にまで及んだ。もちろん放射性物質が風に乗り雨に流れて拡散していくことは当然のことだし、そうした風雨そのものを現在の技術で人はコントロールできないのは事実である。しかも汚染の発生源たる崩壊した原子炉そのものすら密閉できないでいるのだから、汚染の拡大は必然でもあろう。公園や運動場の土壌を削り取ったりすることで、物理的に放射能を薄める努力はしているものの、そうした方法がどこまで効果的かは疑問なしとしない。それでもそうした汚染は発生源たる原発から遠ざかることで薄まり、薄まることは距離に比例して放射能の影響が小さくなることでもあると理解していた。それはたとえ原子炉から漏れ出た汚染水が海中に流れ出し、海水や海底の泥へと拡散していくことであってもである。

 そうした汚染の拡散と今回の牛肉の汚染とは、つまるところ同じではないかと言うかも知れない。野菜や公園の土壌の汚染と意味するところは同じではないか思うかも知れない。でも違うのである。今回発生した牛肉の放射能汚染はそれとはまるで意味が違うと思うのである。
 それは今回の汚染は、牛の内部被爆によるものだったからである。発端は2011年7月8日のことであった。福島県相馬市の酪農家から出荷された肉牛11頭のうち、1頭の首部の肉から基準値(1キログラム当たり500ベクレル)を4.6倍も超える2300ベクレルもの放射セシウムが検出されたのである(7.9、朝日新聞)。そして翌10日には残る10頭からも同様の放射能が検出されたとの報道がなされた(7.10、朝日)。

 しかもこの問題はこの11頭に限るものではなかった。同じような時期に浅川町から出荷された42頭の肉牛からも出荷基準を超える放射性セシュウムが検出され、その肉は解体され販売ルートに乗って全国に流通していったからである。その流通範囲は4都県の食肉処理場を経て7.16の新聞報道では23都府県へ、7.16朝のNHKテレビでは28都府県にまで拡大している。まさに全国へと流通しているのである。
 8.17の朝日新聞は、こうした餌による肉牛汚染が郡山市、喜多方市などから新たに84頭発生したと伝えていた。拡大拡散は止まるところを知らないようである。

 こうした事態に対して私は二つの問題を指摘したいと思う。原因は内部被爆にあるけれど、一つは解体された商品が全国へ流通していること、もう一つは内部被爆そのものについてである。
 最初の全国への流通の問題は、これまでの常識であった汚染源からの距離によって放射能による影響は次第に小さくなっていくという神話が通じなくなってきたことである。もちろん汚染の第一次的な原因は汚染源からの距離にあること自体は否めない(これも風向や降雨状況などの気象によって異なり、いわゆるホットスポットと呼ばれる距離に関係なくポイント的に汚染の高い地域が点在していることが観測されている)。だが今回の汚染の原因は牛そのものではなくで、牛の飼料として与えた稲わらにあったことである。それも汚染源からは遠く離れた地域で刈り取られた稲わらであったことである。

 行政は、汚染地域の稲わらについては規制していたものの、遠く離れた地域のしかも秋には収穫が終わってすでに刈り取られているはずの稲わらが春まで田んぼに放置されている事実にまで目が届かなかったと言っている。そのことの是非は問うまい。もう少し注意深く監視の目を行き渡らせる必要があったのかどうか、私にはその是非を論ずるだけの知識はない。それを「想定外」として放任しようとは思わないけれど、人のやることであるどこかに盲点が生ずることは避けられないように思う。
 それでもそうした「想定外」を承認するのではなく、想定外もまた想定したシステムが必要だと思うのである。牛一頭育てるのに、放射の汚染の可能性の原因をどこまで考慮する必要があるか私には分からない。単純に飼料、水、呼吸するであろう空気の浄化、雨や風からの防護、各種防疫作業くらいしか思いつかないけれど、そうした考えられる要因の全部について、どこまで飼育農家や行政がコントロールできるのかもまた疑問である。

 政府は福島から出荷される全部の肉牛について全頭検査をすると宣言した。そのことを後手だとは言い切れないだろうけれど、でもそうした検査は肉牛だけでいいのか、豚肉や鶏肉はどうなのか、鶏卵は大丈夫なのか、魚はどうかなどなど問題点は際限なく広がっていく。しかもそうした検査だって機器の充実や従事員の配置などといった物理的な対処だって可能かどうかなどを含めると対応は容易ではないような気がする。

 「肉牛に放射能が見つかったから今後は肉牛の検査を徹底する」、そのことは正しい。でもそれはそこで終わりではないはずである。次に「豚肉にも見つかったから・・・」が起きるまで豚肉の検査はしない(場合によっては物理的にできない)のだとしたら、肉牛に放射能が見つかったことの教訓がどこにも生かされていないのと同じになってしまうのではないだろうか。もちろん検査には物理的にも予算的にも一定の限界のあるだろうことを知らないではない。でもそうした限界を認めざるを得ないと言うことは、そのまま「汚染は距離を超えて拡大していく」ことをも認めざるを得ないと言うことではないだろうか。

 さてもう一つの問題点は内部被爆である。確かに今回の事件は、「放射能を帯びた稲わらを牛の餌として与えた」ことによって発生している。でもこのことは、肉牛の汚染のみにとどまるものではなく、「生物の体内において内部被爆が発生した」ことと同義である。つまりは豚や鶏、更には「人体の内部被爆」と同じ意味を持っているのではないかと思うのである。だからと言って人や豚が稲藁を食べるわけではないけれど、そのことがそのまま安全の保証になるわけではない。

 稲わらだけが原因なのか、飲料水や空気や風雨の影響は皆無だったのか私には分からない。しかし、少なくとも体に触れた(口からの摂取にしろ皮膚への接触にしろ)放射性物質が体内に蓄積されたことだけは、牛に関しては事実として証明されたのである。牛の命と人間の命を比べようとは思わないけれど、同じ生物として牛も人も同じようなシステムで「生体を維持している」ことに違いはないだろう。牛に起きたことは、そのまま人間にも当てはまるということである。内部被爆はすでに想定の話ではない。もう一つの問題点として掲げた「汚染は汚染源からの距離を超えて拡大していっている」ことと合わせるなら、もう私たちには汚染は傍観者を超えて現実の危機、当事者としての危機にまでなっているということでもある。

 政府や識者はそれでもなお、「直ちに影響は少ない」、「仮に毎日食べ続けたとしても危険はない」を繰り返すのみである。基準値を100と定める、そのことは分かった。でも測定値が90だったときに、基準値以下だから安全ですと果たして言えるのだろうか。基準値100は毒だけれど99は無毒で安全ですみたいな言い方には、私はどこか嘘があるように思えてならない。だから「風評被害」と言う言葉を繰り返す政府や生産者や産地の行政などの声には、どこか信頼できないものが感じられてならないのである。自然界に存在する程度の測定値でない限り、たとえ基準値以下でも私には「安全ではない」と思うべぎだし、少なくとも口に入れないことや近づかない行動が風評などと言う言葉に惑わされてはいけないと頑なに思い込んでいるのである。

 17日の朝日新聞はこんな住民の声を報道していた。
 「牛肉は毎日食べるものではないし、年齢から言って自分の体への影響を気にすることもない。福島産を避けるつもりはありません」(会社員、64歳女性)
 「福島では野菜や果物を検査して、基準を超えれば出荷規制している。牛肉に問題があっても、野菜や果物は別。食べ続ける活動に変りはない」(「福島の野菜を食べる会」代表、54歳男性)


 安全神話がこれほど崩壊し、原子炉の後処理すらきちんとできないままに放射能漏れが続いている現状を目の前にして、それでもなおこうした意見が出てくる日本の姿はどこか変だ。そして「自分は年寄りだから・・・」なんぞはまさに身勝手なエゴでしかないと私には思えてならない。

 もう一度言いたい。少なくとも日本は(たとえ外国の支援を受けるにしても)原発をコントロールできないことが明らかになったのである。事故処理に全力を注ぐことは大切であるけれど、同時に原発ゼロを目指した方向へと直ちに舵を切る必要があるのではないだろうか。観念的にではなく、具体的にである。

 参考 これまでに発表した放射能関連のエッセイ
                別稿、『放射能の安全基準』、『再び安全基準と風評



                                     2011.7.17    佐々木利夫


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牛肉の放射能汚染