「歳のせい」と言ってしまえばどんな体調の悪さにも説明がついてしまうのかも知れないけれど、数年来の左足のくるぶしの痛みがこのところすぐには納まらないで、しつこく続くようになってきている(足の痛みについては、別稿「私の札幌さくら旅」、「杖ついて歩く」参照)。そのせいもあって最近はもっぱらJRを利用した通勤になっている。出かける朝の駅は自宅のドアを開けてから5分で乗車できるし、到着駅から事務所までも徒歩約15分くらいなので、その重宝ぶり(横着)にいささかはまってきている。しかも定期券を使うと乗降駅から1〜2駅遠くの区間を選んでも料金にそれほどの差がないので、そうした離れた駅近くにある病院や商店の利用なども自在となり、重宝さが一段と高まるなどの知恵もついてきた。

 それはともあれ最近の利用者の高齢化がそうさせるのか、それともみんなに優しくとの時代の要請なのか駅にもエレベーターやエスカレーターが普及するようになり、私の利用する通勤の両端駅も自宅近くの駅にはエレベーターが、到着駅にはエレベーターとエスカレーターが設置されている。足を痛めてのJR利用だから、それらの装置を利用するのは至極当然のことである。

 ところで到着駅ではエスカレーターを使うことが多い。エスカレーターとは昇降する階段と同じようなものだから、階段に足を乗せるとそのまま到着地点まで自動的に運んでくれるのがこの機械の使命であり、そのための装置である。ところがこの頃のエスカレーターの利用には、駅だけでなくデパートなども含めて一つの暗黙のルールが、自然発生的に出来ているのだそうである。そのルールはどうも関東以北と関西以南とでは違うようなのだが、動く階段上に止まったまま乗っかっている人とその階段を歩きながら利用する人とでは乗る位置が区分けされているという話である。どこかのテレビのワイドショーがらみで聞いただけなので、きちんと検証したわけではないが、関東以北では止まっている人はエスカレーターの左に立ち、歩いて移動する人は右側通行、関西以南ではその反対になるとの説である。

 つまりエスカレーターを歩いて昇降するような急ぐ人のために右か左の片方を開けておいて「お先にどうぞ」というルールである。エスカレーターの目的は、階段を利用するのが億劫だったり困難だったりする人のために開発されたものだと思っているから、私の中ではエスカレーターを歩くという発想はそもそも存在しない。そはさりながら、こうして毎日のようにエスカレーターを利用しているとこうしたルールは的確に守られているようであり、しかも止まったままで動く階段に身を委ねている乗客というのは実は少数派であることが分かってきた。

 そんな朝の到着駅でのエスカレーターの下り線である。高架駅なので電車を降りると二階のホームから一階の改札口へと向う。札幌駅ほどの混雑とは比べようもないけれど、それでも一応は商店街を持つ駅である。そこそこの混雑はある。電車から吐き出された乗客は思い思いに階段やエレベーターを使い、エスカレータへも歩を進めて改札口へと向っていく。私はそのエスカレーター利用の一員である。下りの踏み板の左側に両足を載せる。すでに何人かの先客はいるが止まったままの客はほとんどいなく、それぞれが急ぎ足で動く階段を駆け足のように進んでいく。したがって私の前の左路線はどちらかと言うとガランとした空席の下り階段が続いていることが多い。

 先にも書いたように関東以北のエスカレーター利用の暗黙のルールに従って、私はその階段の左側に体を乗せる。エスカレーターはせいぜい二人が並ぶくらいの幅しかないけれど、それでも私の右は通り抜けられるように空いたままである。恐らくこの暗黙のルールはほとんどの人が知っているのだろう、右列には立ち止まったままの人などあまり見かけたことがない。

 私の朝の利用は通勤時間帯にはいささか遅い8時半前後なので、混雑が行列を作るほどではない。そのせいか私の前列にも右列にも足を止めたままの乗客はいない。当然のことながら私の後ろに続いた乗客は、エスカレーターの本来の目的など考えることなく暗黙のルールにしたがって私の右側を追い抜いていく。もちろんわざわざ後ろを振り向いて私に後続する左側乗客がいるかどうかの確認をしたことはない。でも気ぜわしい乗客は次々と私の右側を通り抜けて先へと進んでいく。私が左側に止まり、その右側を急いでいるだろう多くの人が追い抜いていく、そんな風景も今となっては特に違和感などない。

 でもある時突然、追い抜いていく乗客に一定のパターンがあることに気づいたのである。そしてそれがどうも不自然なパターンに思えたのでなお更気になってしまった。
 それは私を追い抜いた人のほとんどが、私の前をふさぐように歩行路線を変えることであった。つまり私の右側を通り抜けた人はそのまま真っ直ぐ歩いてエスカレーターの終点まで行くのではなく、私を追い抜いた直後になぜか私の前の左列へと移動し、そのまま急ぎ足で降りていくのである。

 もちろん進行方向右側に先行した乗客がもたもたしていたり、立ち止まっていたと言うなら、急ぐ乗客が左へ移動するという行動は合理的である。でもそうではなく、追い抜いた人がエスカレーターの終点につくまでに私の前列にも右列にも通行に障害となるような立ち止まっている人などいないにもかかわらず、それでも左側通行で降りていくのである。こんな現象がどこでも起きているのかどうか確かめたわけではない。もしかしたら私の利用している駅のこのエスカレーターには、私の知らない特有の行動パターンを強制する何らかの要素が存在しているのかも知れないからである。

 けれども毎日のように同じパターンを見せつけられていると、何らかの原因によるのではなく、人は無意識に左側通行を選ぶような癖があるのではないかと思ったのである。歩いて降りる人の通路は左右とも空いているのだし、私の右をすり抜けて堂々と中央を歩こうとしたりだが、はずみで左に寄り過ぎたと考えられる余地がないではない。しかし左寄りではなくまさに左側を歩いているのだから、どうも意識的に左側通行を選択しているように思えて仕方がない。
 こうした現象は最初は下りエスカレーターで気づいたのだが、その後注意してみると上り線でも同様なことが起きていると分かってきた。

 そんなことを考えているいるうちに、札幌の中心街にある地下街でも同じような傾向が見られることを思い出した。札幌の地下鉄はすでに南北線、東西線、東豊線の三線があり、それら三線が合流する大通り駅には地下商店街がある。一つは繁華街すすきと結ばれており、一つは東側のテレビ塔へ、そしてもう一つが今年の3月に開通した北へと向かう札幌駅へのルートである。その地下通路を歩く人の流れは、なぜか決まって左側通行になっいるのである。特に通行方向が決められているわけではない。それぞれが商店を横目で眺めながらの雨知らずの地下街の気ままな歩行である。それにもかかわらず、なぜか自然に左側通行の流れが発生していくのである。何度か意地悪く右側通行を試みたことがあるけれど、逆らうことなどできそうになかった。道路の右側通行は子どもの頃からの習慣になっているはずなのに、それがどうも人間の無意識の行動には適用されないようなのである。

 右側通行は単なる道路交通法で定めたルールにしか過ぎないから、それが人間の本性に関係しているとは必ずしも言えないだろう。それでも少なくとも私のエスカレーターの経験、そして地下街を歩いている人の流れを見る限り、人の無意識の行動の基本はどうも左側通行にあるような気がしてならない。
 人間の心臓が左についていることで、対向して歩いてくる人間とぶつかるようなことがあった場合に無意識に心臓をかばう、対面通行の相手から心臓の位置を遠ざけるような構えをとることが保身上必要だった進化の歴史があった、そんな潜在的な心理が働くからなのだろうか。

 エスカレーターに最初に載せる足は右か左か、トイレの始末はどうして左手なのか、右脳と左脳の役目の違いはどうして生まれたのか、朝顔のつるの巻き方は右か左か、そもそもどうして右利き・左利きがあるのかなどなど、右と左にはまだまだ面白いものが隠されているように思える。
 そしてなぜか私は左右の位置感覚が弱いのである。上や下なら指先を向けるよう指示されても間違うことなど絶対にないけれど、右とか左とか言われて咄嗟に反応しなければならないような場面に遭遇すると、時に混乱し時に反対側を指差すことだって起きることがある。そしてそんな混乱した頭のどこかで昔ながらの呪文、「ご飯で箸を持つ手が右」をつぶやいている自分があるのである。


                                     2011.10.19    佐々木利夫


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