若い人だけに限らず今は誰もかれもが「かわいい」を乱発しているのではないかと書いたのはもうだいぶ前のことになる(別稿「『かわいい』と『美しい』と」、「『かわいい』再考」参照)。そうした気持ちは今でも変わらないのだが、最近はその「かわいい」に加えて「おいしい」も同じような位置に登場してきているような気がしてならない。

 もしかしたら味に関する日本語の語彙はどちらかというと少ないのかも知れない。本当はたくさんあるのかも知れないけれど、そうした会話を交わすチャンスが少ないこともあって私たちの会話に登場する語彙としては乏しいものになっているだけなのかも知れない。

 例えば毎日の食事である。私たちは無意識に「いただきます」、「ごちそうさま」を繰り返しているが、考えてみるとこの言葉の中に味に対する評価は少しも含まれていない。「ごちそうさま」にはその食事に満足したことへの感謝の意味も含まれているのだから、それはそれでいいではないかと思うかも知れない。でもこの言葉には「作ってくれてありがとう」はあっても、「おいしい」との評価はまるで含まれていないことに気づく。

 つまりこの「ごちそうさま」は食事全体への感謝は示しているものの、いくつかあるメニューの個々に対する評価、もしくは味に対する具体的な評価は含まれていないと思うのである。それは私自身の日常の食事に対する反省も含めてなのだが、日本人はどこかで個別の料理に対する感謝の気持ちを忘れてしまっているような気がする。それはあたかも包括的に評価し感謝しているのだから、その評価の中には個別の評価も含まれていると思い込んでいるようなふしが感じられてならない。

 そして他方、料理やグルメの番組である。ここでは「おいしい」が乱発される。私がこうした番組を見る機会が多いのはどうしてもテレビだから、作られた番組は一種の宣伝を目的にされていることは否めない。たとえその宣伝が食材にしろ、産地にしろ、加える調味料にしろ、はたまた調理する人の腕前や調理器具の性能にしろであったとしてもである。だから、そんな料理番組で、「いまいちの味だね」だとか「あんまりおいしくないね」なんてことなど言えないだろうことが分からないではない。

 それでも誰も彼もが「おいしい」だけを連発しているのはどうもいただけない。それはもしかしたら日本文化の中に味を表現する語彙が少ないからなのかも知れないと、先に書いた思いのくり返しが再び頭をもたげてくる。味はその人その人が感じる感性であり、またその味わいを人の知識として積み重ねてきた歴史は旬と呼ばれる季節と分かちがたく結びついていたのだと思う。
 今でこそ温室生産や航空便による海外からの輸入なども含めて、「旬」のイメージは身の回りから消えてしまっている。そもそも私たちの味覚の歴史の中に「旬」などはなかったのかも知れない。味わうこととは、その魚なり野菜や果物なりが食用に適する状態、味覚としてもっとも豊穣の時を迎えたことを意味しているのであり、旬以外に口に入ることなどなかったのが、私たちの経験した味覚としての歴史だったのかも知れないのである。つまり「旬」とは特定の地域や風土に限定された味覚であり、その地域固有の言葉でしか表現できないものなのかも知れない。

 そしてその地域固有とは決して名産品を指すのではなく、日常生活と分かちがたく結びついた当たり前の食材だったのである。そこから私たちはその地域の言葉として「おいしい」を意味する表現や特有の言葉を見つけてきたのではないだろうか。だからおいしさを示す言葉には、そうした私たちが先祖から受け継いだ貴重な味覚の歴史が積み重なって出来上がっきたのだとおもうのである。それを私たちはなんでもかんでもひっくるめて「おいしい」の一言でその味覚の全部を表そうとしている。

 だとすれば私たちが「おいしい」という言葉を学んだのは、もしかしたら「旬」を外れた食材を口にするようになってからのことだったのではないだろうか。つまり豊富な食材が天然に存在している時代、食べるに適した時期にそれを口にすることは至極当たり前のことでなかったかと思うのである。それが人口の増加や集落化、気候の変化などで適期以外でも口にしなければならなくなり、旬の旨さに気づいてそれを表現する必要が出てきたのではないのかと思うのである。

 「だとすれば」を何度も重ねて仮説を作っていくことはどんでもない結論へと結び付けてしまうかも知れないが、それでも私には人が「おいしい」の言葉を作り上げてきた背景には大切な味への思いがあったような気がする。このことはそもそも「おいしい」を伝える言葉は方言として発達してきたのかも知れないことでもある。そうした方言からの集約化のなかに「おいしい」が埋没してしまい、そしてその意味が次第にないがしろにされてきているような気がしている。

 最近の新聞記事である。高校生言葉の変化のなかに「かわいい」が他の言葉を侵食していく例が取り上げられていた。

 「・・・高校生の『かわいい』はどんどん広がっています。例えば、愛くるしい老人もかわいい、ダンディーな中年もからいい。他の言葉を侵食しています。高校生の会話を聞いていると、私は近い将来、『おいしい』も『かわいい』に乗っ取られるかもしれないと危ぶんでいます。そう遠くない将来、街の中で『かわいい』とおいしそうにアイスを食べる高校生の姿を見かけるかもしれません」(2011.12.14、朝日新聞、子どもを読む、HR編集長 鈴木俊二さん(46))

 言葉が変化していくことを否定したいとは思わない。言葉だって時代に流され変化していくことは止めようがないだろう。それを嘆くことではないと理解しつつも、「おいしい」の言葉が未成熟のまま変化していくことにどこか寂しい思いがしたのである。乱発もまた言葉の無駄遣いである。乱発された言葉は、乱発の事実の中にその味わいを埋没させてしまうことになる。数多く使われ続けることで、言葉もまた磨耗していくことだろう。どんな言葉だって使い古されていくことの中に角が取れ、その言葉の持つ純粋さが次第に磨耗して変化していくのかも知れない。
 そのことを否定したいとは思わないけれど、「おいしい」には使い方によってもっと大切な気持ちを伝える意味が込められているのではないかと感じているのである。それがテレビの料理番組やグルメ紀行みたいな番組のなかで乱発され、その持っている大切な意味を引き出せないままに磨耗してしまうことがどこかもったいないように思えてならないのである。


                                     2011.12.23     佐々木利夫


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かわいいとおいしい