どうも私の中では、政府が発表している放射能の安全基準と風評被害・被害妄想とも呼ばれている国民のあたふたしている姿との区別がきちんと整理できていないようだ。安全と風評の乖離についてはすでに何度もここへ書いてきたし(別稿「
ゼロリスク願望は独善か」など参照)、そのたびにもう言い足りないことなどないだろうと思っていた。
だが書いていく後から、安全基準だとか原子炉の冷温停止などの話を聞くたびに、隔靴掻痒と言うか奥歯にものが挟まったと言うか、どこか私は気持ちがすとんと落ちていかないものを抱えたままになっているのではないかと感じていた。
そして今度の甲状腺検査の話題でも同じような気持ちになったのである。この検査は10月9日から行われたと新聞・テレビで報道されていた(10.10、朝日新聞他)。その目的は放射性ヨウ素が甲状腺に蓄積されやすく将来のガンなどの発症につながるかも知れないとのことにあり、原発事故当時福島県に在住していた18歳までの子供全員を対象に、それも生涯を通じて検査するというものである。
放射性ヨウ素は半減期が短く、早期に体内からなくなるからその検出は既にできないと言われている。だからと言ってそのことが安全であることを意味するものではない。体内に取り込まれたヨウ素は甲状腺に集まりやすく、仮に体内から排出されていたとしても内部被曝が既に起きているかも知れないとの想定があるからである。
だからこの検査は放射性ヨウ素の存否を調べるものではない。原子炉事故から半年を経て、放射性ヨウ素はすでに体内には止まっていないからである。今回の検査は、体内に取り込まれたかも知れない放射性ヨウ素によって、現実に甲状腺への障害が起きていないかを甲状腺がんにつながる首のしこりの有無を超音波装置や触診によって確かめようとするものである。
子どもの甲状腺がんの発症は、チェルノブイリ原発事故では4〜5年後から増え始めていると言われる。そうした心配を前倒しで検査しようとするのが今回の検査の目的である。
とは言っても、すでに放射性ヨウ素が消えてしまっているいる以上、この検査で子どもたちが受けた被曝線量の総量が分かるわけではない。甲状腺の細胞そのものを遺伝子検査してどこまで影響をチェックできるのか、そのための検査手法が子どもたちの体を傷つけることはないのかなどについて私の知識は皆無である。恐らくそうした手法が現実的でないことから、今回のような対症療法的な超音波検査になったのだろう。超音波検査は放射能の影響そのものを調べるものではない。単にしこりがあるかどうかの検査でしかない。そして「しこりがある」とされた場合は、それは一つの結果でしかないのである。予防することなど不可能な、ある日突然に「しこりがある」との結果を宣言されるかどうかだけなのである。
そしてもっと深刻なことは、「しこりがない」ことがそのまま安心につながるものではないことである。「しこりがない」ことは「甲状腺がんの心配がない」こととは無関係である。「しこりがない」ことは単に「今のところ発症していません」にしか過ぎないからである。ならば、その「今のところ」はいつまで続くのか。その期間を今回の検査の実施基準の公表は、なんと「生涯」であることを明らかにしたのである。
この検査の対象者は原子炉事故のあった当日、福島県に居住していた0〜18歳の全県民、約36万人である。その36万人に対して、この検査は生涯継続して実施されるのである。20歳を超えると5年に1度の検査になるらしいが、福島で生まれた0歳の子どもは、思春期を経て成人式を迎え結婚し、40歳、50歳・・・、やがて還暦や古希を迎えるまでになっても、まだくり返しくり返し検査を受け続けるのである。
恐らくそのたびに「しこりはありません」と言われるのかも知れない。でもそのことは同時に、「いつしこりがあると言われるだろうか」との恐怖を背負わせた人生を強いることでもある。甲状腺がんの苦しさや治療の方法などについても私は何も知るところはない。転移の心配もなく体への影響も小さくて、発症しても簡単な手術で完治するものなのかも知れない。でもだからと言って生涯を「がん宣告の恐怖」の中で過ごすことの意味を、そう簡単に見過ごすことなどどうしてもできないのである。
検査した医師から言われる「しこりはありません」の言葉は、果たして検査を受けた人にとって「安心」を与えるものなのだろうか。私には単なる「不安の先送り」にしかならないように思えてならない。もちろん当事者でない私にはその辺の気持ちはまるで分からない。この検査をする県立医大の教授は
「今の時点で甲状腺への放射能の影響は全く考えられないが、現在の状態を知ってもらい、安心につなげたい」と語っている(10.10、朝日新聞)が果たしてどこまで安心につながるものなのだろうか。
検査を生涯に亘って継続することに異を唱えるつもりは全くないし、むしろ必要なことだとさえ思っている。だがこうした検査が必要であること自体が、見ることもできず臭い味もなく、しかもすでに体内から消え去っている放射能であっても人体に影響を与え続けるかも知れないとの思いを対象者だけでなく全国民に教えてくれているような気がする。
その放射能が事故当時からは減っているとは言え、原子炉周辺から風雨によって東京都を含む広範囲にばらまかれ、そこで栽培され飼育された作物や畜産物を通じて全国に拡散していっているのである。もちろん政府は一定の基準値を決めて、これを超える食品などが流通しないように監視している。
でも前にも書いたことだけれど、政府も専門家も決して「基準値以下の食品は絶対安全です」とは決して言わない。だから私にはそう言い切るだけのデータも保証もないのだろうと思えてならない。しかも検査はサンプルであって、そうした検査をすり抜ける可能性を否定できないからである(別稿「
つのる安全神話への不信(1)」参照)。
しかも、しかもである。政府の決める安全の基準値は、少なくとも今のところ「暫定」でしかない。そして最近、日本で食品の安全基準に関する本を出版するためにチェルノブイリ事故のあったウクライナの隣国であるベラルーシから訪日した著者は、「わが国でも当初は暫定の基準値を示した。もっと低い値にしたかったのだが除染が進まず、全部の食品が望む基準値を超えてしまうことになってしまうので、やむを得なかった」と話しているのである(2011.10.17、NHK朝7:00からのニュース)。つまり食品の流通などを考慮した結果、望ましい基準値よりも高い値を暫定値として設定したことはやむを得なかったと堂々と宣言しているのである。
政府は事故当初から今に至るまで「ただちに健康に影響はない」を繰り返すばかりである。こんな状況下にあって、しかも年金、医療、災害復興などなどを巡る政治不信の最中にあって、私たちは「風評だ」と批判されようとも、少しでも放射能から遠ざかろうとする行為を決して恥じる必要などないと、私はくどいくらいに思い込んでいるのである。甲状腺検査を生涯にわたって実施しなければならない状況が、そのまま安全神話の崩壊を具体的に証明しているのではないかとすら思っている。放射能におびえる人々の行動は、決して風評と言われるような根拠のない思い込みや妄想ではなく、将来起こり得る可能性を秘めた具体的な恐怖や危険への合理的な回避行動だと思うからである。
2011.10..20 佐々木利夫
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