前段(やったぜ、ニーチェ(1))で私の抱いたニーチェへの理解は錯覚かも知れないと書いた。それが事実だとするなら、これから書こうとしているのは、まさにその錯覚に連なる系譜である。
 そうは言っても錯覚にしろどこまで理解できたかをここへ書くことは容易ではない。全体を通したニーチェの世界観を理解できたなどとはとても言えない通り一遍の読書だったし、しかも理解できるまでじっくり付き合うだけの根気もまた私には欠けていたからである。

 そんな中途半端な読み方でこんな言い方をするのはまさに不遜だとは思うけれど、読み終えて(読んでいる途中でも感じたことなのだが)どこかしっくりこない感情が残ったのである。読書と言うのは作者の意図を理解しながら読み進んでいくのが常識なのかも知れないが、そこまでの読書というものに私はあんまり向いてはいないらしい。それがまあ乱読のいいところなのかも知れないし、読んだことで理解したつもりの一件落着を気取っている自称読書人にとってみれば、そのあたりの錯覚が落としどころになっているのかも知れない。

 だから中途で読むのを放棄した本、分からないままに終わってしまった本、読んだ端から忘れていって読んだことすら記憶に残らなかった本なんてのは、これまで山のように存在している。だからそんな雑な読書は日常なのだから、ニーチェの著書がそうした中の一冊だったからと言って特に気にする必要はないだろう。とは言いながらもこの本の読後感には、どこか後味の悪い滓のようなものが残ったのは事実であった。

 ニーチェの「善悪の彼岸」は、「序」と9篇に分けられた296の断章、それに「結びの歌」の11のブロックから構成されている。全編が一種の警句や箴言のようなスタイルで作られているから、その僅かな断片を引用してとやかく言うことは必ずしも適切ではないだろう。それでも私には全体を見通しすだけの力は備わっていないようなので、細切れな断片を取り上げて感想を述べるしか方法がないように感じている。

 「・・・自然は、際限なしに浪費するし、際限なしに無関心であり、意図も顧慮ももたず、憐憫も正義も知らず、豊饒であると同時に不毛であり、同時に不確実である」(断章9、哲学の暴力)。
 「君たちの傲慢な心は、自然に(自然にすらだ)、自分の道徳と理念をおしつけ、〔自然を〕わがものにしようとしているのだ」(断章9、同上)。


 こうした意見はどこか奇妙に人を納得させるものを持っている。人と自然とのかかわりは、あたかも自然は人間のために存在するような思いに浸っている者に対して、時に公然と裏切りのような表情さえ見せることがあるからである。

 「家が燃えているときには、昼食も忘れてしまうものだ。――たしかに。しかし『家が燃えてしまったら』灰の上でまた食べ始めるのだ」(断章83、本能)。
 「軽蔑している人を憎むことはない。憎むのは、自分と同等の評価をしている人、あるいは自分よりも高く評価している人なのだ」(断章173、憎悪)。
 「他人の虚栄心が、わたしたちの趣味に合わないと感じられるのは、それがわたしたちの虚栄心とぶつかるときだけだ」(断章176、虚栄心)。
 「賢明な人は愚かなことをしないものだと人々は信じている。これは何という人権侵害であろうか!」(断章178、誠実さの逆説)。
 「思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ」(断章184、思い上がった善意)。


 人の持っている「人らしい様々」が、時として残酷で身勝手なものだということは、どこかで分かっているつもりだが、それでもこうしてあからさまに示されてしまうとどきりとさせられる。それが人の要素の一つなのだと分からなくはないけれど、だからと言ってそんなに簡単には割り切れないようにも思えているからである。

 「わたしたちはある木を眺めてもその葉、枝、色、形などを正確かつ完全に目に入れるわけではない。むしろそこに一本の木のおおまかな姿を思い浮かべるほうが、はるかにたやすいのだ。きわめて異例な体験のさなかでも、わたしたちは同じようにふるまう。・・・ずっと昔から、わたしたちは根本的に『嘘をつくことになれている』ということだ」(断章192、認識の『創造力』)。
 「母親であって、自分が産んだ子供は自分の所有物だと心の奥底で信じていない人は一人もいない。もちろん父親であって、子供を自分の考え方や価値評価にしたがわせてよいと信じていない人も、一人もいない」(断章194、所有欲)。
 「・・・さまざまな民族が混淆していく現代にあっては、こうした時代のつねとして、人間はさまざまな由来をもつ遺産を体内に宿しているものだ。すなわち対立する欲動と価値の尺度を、しばしば対立するだけでなく、たがいに闘い、ほとんど和解することを知らない欲動と尺度を体内に宿しているものだ」(断章200、弱者と誘惑者)。

 そうした身勝手さが、人であることの中に本質的に備わっていることをニーチェは指摘したいのかも知れない。こうした記述の意味が分からないと言うのではない。むしろ小気味良く感じられることさえある。彼がある事象を批判し、問題点を指摘し、疑問点をあげつらい、分かりやすい比喩で私たちが信頼し崇拝している事象の本質や欠陥を分析する。そうしたことの言葉の意味は良く分かり時に納得できる場合さえあるにもかかわらず、一歩引いて「だからどうなんだ」と問いかけてみると、その答えがこの著書からは見つからないように感じてしまう。そうした答え探しへのさまよいは読み始めた頃から感じ、読み終えるまで続いていたように思う。
 彼は人体を見事に解剖し、内臓のそれぞれまできちんと説明してくれているように思う。だがその解剖は結局人体をバラバラにしただけにしか過ぎないように思えるのである。解剖と言うのはそれを基に新たな治療に向うような意気込みなり先導があってこそ意義があると思うのだが、この本からは分解した結果としての事実だけが伝わってくるだけで、組み立てと言うか再構築を目指すのような意図が私にはまるで伝わってこなかったのである。

 子供の頃、目覚まし時計をネジ一つまでばらばらに分解して遊んだ記憶がある。父からもらったもので恐らく修理不能だったからこそ子供のおもちゃとして渡されたのだろう。だが「分解すること」の意味は少なくとも意識の上ではバラバラにした歯車やゼンマイをもう一度組み立て、元の目覚まし時計へと復活させることにあるように感じていた。もちろんおもちゃとして与えられたこの時計が、子供の力で生き返らせることなど最初から不可能だっただろうけれど、それでも分解という行動は組み立てる意図(復元への意思)が潜在していてこそ成立するものだと思うのである。

 そうした意味で、このニーチェの書には問題提起だけで答えの提示はどこにも示されていないように思えたのである。もちろん拓かれた問題提起、優れた分析も一つの巨大な能力になり得るだろう。ばらばらに散乱した様々な事柄からでも、そこから人は学び、必要な答えを出していく能力を持っているだろうことの意味が分からないではない。でもこの著書からは問題提起や分解することそのものがあたかも「答え」でもあるかのようにしか私には読み取れなかったのである。

 そしてこの著作からはもう一つ、どう理解していけばいいか分からない点が、私の前に超えられない壁のように立ちはだかってきたのである。それはニーチェの「女」に対する意識であった。このテーマについては稿を改めて書くことにしよう。

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                                     2011.7.22    佐々木利夫


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