さて、こうしてニーチェを読んできて、言ってることは分かるけれどそれがどこまで彼の真意なのかどうかについて混乱していることが一つある。そんなところで混乱しているようなら、これまでに書いた感想やこれまでに引用してきたことも含めて彼に関する全部が混乱していることを自白しているのと同じではないかと言われそうだが、それは彼の「女性」に対する思いについてであった。
 この書の冒頭である「序」が、「真理が女であると考えてみては・・・」で始まっていることはすでに書いた(別稿「善悪の彼岸へ挑む」参照)。なんたってこの言葉がきっかけになって、ニーチェに挑戦してみようと考えついたのだから・・・。

 この第一印象となった出だしから考えて、私はニーチェの女性観を少なくとも私たちが通常考えているような男女平等や一個の人格を背景とした女性観と似たようなものだと考えていた。ところが読み進めていくうちにどうも違うのではないかと感じられてきたのである。女性に対する記述はあちこちに見受けられるが、ともあれいくつかを引用してみよう。

 「女たちはその個人的な虚栄心の背後に、個人的でない軽蔑心を隠しもっているものだ。――『女なるもの』に対する軽蔑心を。」(断章86、女なるもの)。

 「まっとうな女性なら、学問というものには羞恥を感じるものだ。学問によって他人が自分の肌の下を覗くような気がするものだ」(断章127、女性と学問)。

 「女は独立したがるものだ。そしてそのために、『女そのもの』について、男たちを啓蒙しようとし始めている。これこそは、ヨーロッパの一般的な醜悪化の最悪の進歩である。・・・しかし女が真理を望むことはない。・・・女の偉大な技は嘘をつくことである。・・・」(断章232、女とは)。

 「もしも女が、ロラン夫人やスタール夫人やジョルジュ・サンド氏を実例とすることで、・・・『女そのもの』について有利なことを証明するものと考えるならば、それは女としての本能が腐っていることを示すものである」(断章233、三人の実例)。

 「・・・女は食事というものが何を意味するかをまったく理解していない。・・・もしも女に考える頭があれば、・・・もっとも偉大な生理学的な事実を発見していたに違いないし、・・・」(断章234、料理人としての女性)。

 「黒い衣装を身にまとい、口を噤んでさえいれば、どんな女も賢そうにみえる。」(断章237、格言集)。

 「・・・要するに、女は羞恥心を失ったのだ。女は趣味も失ったのだということを、すぐに付け加えておこう。女は男を恐れることを忘れたのだ。・・・そして『女性の解放』なるものは、それが女性によって要求され、推進されるかぎり、もっとも女性らしい本能がますます衰退し、鈍くなっていくることを示す顕著な兆候なのである」(断章239、女性解放運動)。

 「・・・女性は、愛はすべてのことをなし遂げうると信じたがる――しかしそれは女に特有の迷信なのだ。ああ、心の奥底を理解するものであれば、最高の愛、もっとも深い愛ですら、いかに貧しく、無縁で、尊大で、救うどころかむしろ破壊するものであること。見分けることができるものなのだ」(断章269、愛の『力』)。

 こうした表現はこの本のいたるところに見ることができる。物事を皮相的に記述するのもニーチェの特徴だから、こうした皮相さが女性だけに向けられているわけではない。むしろキリスト教や哲学そのものに対しても同じように皮肉である。ただ私が気になったのは、ニーチェがどこまで女性をこうした目で見ていたのかという疑問であった。もしかしたらニーチェは女性嫌いだったのだろうか。

 太古は知らず文明を築いてきた社会はいつの時代も男性優位であった。少なくとも女性を一段低い位置に捉えていたことは歴史の示すところでもある。政治だの経済だの戦争などなど世の中の変化の多くに対して男性優位の時代は長く続き、女性はむしろ出産と子育てを基本とした男を支える存在として家庭内に閉じ込められていた。そうした風潮は日本のみならず世界共通といってもいいほどだったから、そうした共通意識は男社会の当然の流れとして定着していたことになる。ニーチェの生まれ育った時代は、1844年〜1900年である。まさに現代から見る限り150年もの一時代前の世界だから、女性を自己主張を許さず庇護すべき存在と考える潮流にニーチェもまた流されていたのだろうか。

 そんな風に感じたときに、私は本当にそうした考えにも本当にそうだろうかと疑問を感じたのである。もしかしたらニーチェ特有の皮相さは逆の意味を持っていて、本当はそんな風に表現することによって実は正反対の主張をしていると考えることもできるのではないかと感じたのである。私の読む限り彼の著書の中からは、少なくともそうした反論の根拠となるような記述は見当たらなかった。だから、こうした皮相的な表現はニーチェの思いそのものだとする解釈のほうが見かけ上は妥当する。でも私には、冒頭でも触れたように「真理と女」を対比させたこの本の出だしからは、どこか理解しにくいような気がしてならなかったのである。

 ともあれ私はニーチェ一冊をともかくも読み終えた。彼の主張は多くの論点を単に皮相的に広げるばかりで、どこかへ収斂させようとする兆しがまるで見えてこなかったこと、そしてその皮相的な表現もそうした主張をしたいのかそれとも逆の意味を伝えたいのかの真意をつかめなかったことなどから、読み終えてもまだ私の頭は混乱したままになっている。まあ、言ってしまえば「お前にニーチェは歯が立たなかっただけのことさ」で済ませることは可能であり、またそれが正鵠を射ているのかも知れない。でもそんなにあっさりと我が実力不足を結論づけてしまうのは、少なくとも高校生時代から多少なりとも哲学に興味を抱いてきた者としては、どこか癪である。せめて、「やっばり哲学ってのは難しいもんだ。俺には手が届きそうにないくらい深遠なものだ」くらいには留めておきたいものだと、心ひそかに自分に言い聞かせているのである。

 それでも私の中では、ついこの前までは「ニーチェって知ってるかい?」→「知ってるよ」だったのが、これで「ニーチェ読んだことある?」→「読んだことあるよ」の程度まで昇格したことは自賛してもいいだろう。そうは言ってもこれ以上の深入りした質問だけはお断り・・・、と真剣に思っているのではあるが・・・。



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                                     2011.7.27    佐々木利夫


                       
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やったぜ、ニーチェ(3)

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