ニーチェの著名な哲学書「善悪の彼岸」(中山元訳、光文社古典新訳文庫)に、無茶を承知で挑戦したのは先月のことだった。そして一ヶ月を経て、なんと読了の快挙をなし遂げることができたのである。これまでにダンテの神曲やカントの純粋理性批判に挑戦してその都度挫折してきたから(別稿「ダンテ、やっぱり・・・」、「カントへの無謀な挑戦」参照)、今度の挑戦も自信のないのが本音であった。別にこのテーマで卒論を書こうとか、どこかの入学試験に出るなどの必要性に迫られていたわけでもなかったからである。本一冊読もうと思って読みかけて、面倒くさかろうが面白くなかろうが、結果として読む気が失せて放棄したからといって、今の私にとってみればなんの差し障りもない。あるとすれば多少の意地くらいであろうが、それとても自分で自分に課したペナルティーなしの思い込みみたいなものだから、挫折したところで何の罪の意識すら感じないのは至極当然であった。

 それでも少しずつページが進んでいくと、その内容が理解できるのとは意味が少し違うのだが、進行の結果がページ数として表われてくることに張り合いが出てくるようになってきたのは事実であった。読んだのだから理解できただろうと言われると、なんと言っていいか分からなくなる。それでもお経を読んでるような無味乾燥の単なるページめくりだったのかと聞かれてしまうと、決してそうではないと反論したくなる程度の意識ではあった。だからと言ってどこまで分かったのか問われても、「僅かにしろ理解できた」と答えることも実のところ難しい。

 つい先日の新聞に、私が読破に挫折したカントの純粋理性批判(前述)を紹介するこんな記事が載っていた(2011.7.3、朝日、よみたい古典)。

 「・・・早稲田大学教授の竹田青嗣さんは、アンチノミー論に『今、カントを読む意味がある』と言う。・・・『自分の信念こそ正してと確信する根拠を、カントは問うた。・・・しかし、世界の根本原因や究極原因という『物自体』を問うたら答えはありませんよ、ということを証明した』・・・『人間はなぜ答えのない問いを発してしまうのかも、カントは続く『実践理性批判』で問うた。・・・カントを読むと、たとえば『堕胎は許されるか、否か』という問いに対して、『答えはない。その時代の人間が共有する認識があるだけ』と答えがすぐに出ると、竹田さんは言う。カントは、脳に筋肉がつく。思考のスピードが上がるのだ」(近藤康太郎)。

 こんなことを言われちまったら、挫折してしまった私はどうしたらいいのだろうかと思い悩んでしまう。カントを読むと脳に筋肉がついて難問にもたちどころに答えが出るのだそうだ。そんなカントに私は数ページ挑戦しただけであっけなく退散してしまったのである。この記事を読んで私は思わず、「そんなにあっさりと『カントを読む』なんぞと言わないでくれ」、とつい口走ってしまったのである。「カントを読む」とは、少なくとも何らかの理解を伴った結果があってのことだろう。その「読むこと」そのものについていけなかった私の読解力とはどれほどのものなのだろうかとの思いが募り、まさに意気消沈してしまったからである。

 カントは散々だったけれど、それでもどうやらニーチェの一冊だけは読み終えることができた。何と言ったって世界的に大著、名著の評価の高い「善悪の彼岸」である。読み始めたのは6月の始めだったから、文庫本ながら500数ページの読破に約一ヶ月を要したことになる。
 それでは私はニーチェが理解できたのか。「少しは理解できた」と答えたい。だがそのためには「ニーチェはすばらしい」と言わなければならないのだろうか。もちろん理解したことの証拠として、否定的な評価をすることで示すことだって可能である。ニーチェなんぞ実にくだらない、何の感銘も受けることはなかつた、これのどこが名著なのだ、そう言い切ることだってできるだろう。だがそのためにはこの著名な大哲学者に対して、私の実力がそれに勝るだけの力のあることを示す必要がある。そんな大それた考えなど及びもつかないから、やっばり「ニーチェはすごい」との称賛するような結論に飛びつくしかないことになる。ところがそうした称賛に対してニーチェはこんな風に語る。

 「他人を称賛しようとした場合に、その人と意見が一致しないところだけを称賛しようとするのは、繊細で、高貴な自己抑制と言えるだろう。――そうではなく『意見が一致するところを』称賛するというのは、自己を称賛するのと同じことであり、・・・『彼はわたしを称賛している。だからわたしの正しさを認めているのだ』――このような愚かしい推論は、わたしたちのような・・・者たちの半生を駄目にしてしまうものだ」(断章二八三、他者の称賛)

 せっかく称賛しようと思い立ったのにこんな風に道を閉ざされてしまうと、せっかく「ニーチェはすごい」と少しは分かったふりをしてみたいのに、このままだとどうしていいか分からなくなってしまう。
 人は他者に共感し共鳴し、時に心酔することだってある。でもそれってもしかしたら自分の中にあったものの単なるこだまにしか過ぎないのだろうか。そしてもっと極端に言うなら、そのこだますら身の裡から発したものではなく、「理解したふり」を装うことの錯覚でしかないのだろうか。だとするならつまるところ他者への理解というのは、凡庸な我が身にとってはきらびやかに見せるためのイリュージョンにしか過ぎないことをも認めざるを得ないことなのだろうか。

 「それだっていいじゃないか」との声が聞こえてこないでもない。人はどこかで他者を理解しよう思うのだし、そうして得られた理解が仮に錯覚に過ぎなかったとしても、錯覚もまた私自身を構成する一つの要素になり得るかも知れないではないか。ともかくも私はニーチェの「善悪の彼岸」一冊を読み終えたのである。それが錯覚にしろどこまで自身の一部になっているかは心もとないけれど、こうして「心もとない自分」を少し離れて見つめてみることも人生の一興でもあろうか。


                                  「やったぜ、ニーチェ(2)」へ続きます。



                                     2011.7.15    佐々木利夫


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やつたぜ、ニーチェ(1)