仕事よりもすさびの重視するような生活は、つまるところ「これまでの蓄えの食いつぶし」に過ぎないではないかと言われればそれまでのことである。なんと言っても少しずつにしろ赤字になる分だけ蓄えが減っていくことは事実だからである。しかも、どこまでこうした過ごし方を楽しんでいけるのかを見通すことだって困難である。例えば毎週のエッセイの発表が楽しみだと言ったところで、ある日突然書くネタがなくなる事だってあるかも知れない。もっと簡単に病気で入院してパソコンと絶縁状態になる可能性だってある。「何かを楽しめる」というのは、その楽しめることに費やすことのできる「自分の中に存在している興味の持続とその意思」でもあるだろうから、突然に本を読むことが億劫になることだって、クラシックを聴くのが嫌いになることだってあるかも知れない。そうなれば今味わっている楽しみはその時に終焉を迎えることになる。

 そうした時、それに代わる別な楽しみが私自身のこれまでの生き様の中から発見できればいいけれど、見つからなかったらそれまでのことになってしまう。これまで私は様々な楽しみを味わってきたし、また現に味わいつつあるけれど、それどれもが自分自身の中にあるものの反芻であるように感じている。つまり、私が楽しんでいられるのは、私の中にそれを味わう下地が存在しているからだと言うことである。
 私がこうしてエッセイを発表し、エッセイを作ることそのものを楽しめていると言うことは、私の中に少なくとも「文章を書ける」と言う下地があるからである。しかもその文章で何を言いたいのかを決めているのは、やはり私がこれまで経験し興味を持ってきたことに限られているような気がしている。

 例えば私が旅について語るとする。その旅のイメージの中には、独身時代に味わった夜汽車の眠れない車窓を流れ去るどことも知れぬ駅舎の明かりや踏切の点滅がいつも含まれている。そしてそんな一人旅の中で口に含んだワンカップの酒の味や、なんとも表現できない切なさややるせなさなどが旅そのものに味付けしているのを否定することはできない。持って行った一冊の文庫本への思いや、たとえ題名など忘れてしまったにしても持っていったことそのものが旅と言うイメージにしっかりと染み付いているのである。

 音楽だってそうかも知れない。高校生までの私の生活に音楽はなかったけれど、最初に入った職場の研修所の教官が聞かせてくれたベートーベンの運命交響曲がきっかけになったこと、そしてそれがやがて楽器を手にするまでになったこと、数学への興味もアインシュタインへの傾倒も、稚拙な詩を作ったり創作に意欲を燃やしたことなども、そのどれもが少なくとも私の中に興味として少しずつ培われてきた結果によるものだと言うことを否定はできない。

 しかも決定的なこととして感じるのは、どうもそうした私を形作っているのは24〜25歳までに経験した範囲に限られてしまっているように思えることである。「60の手習い」との言葉を知らないではない。平均寿命が延びてきて、生涯学習の掛け声も現実的になってきていることも承知している。でも私が抱く興味の方向は、どこか20数歳までに自分の中に蓄えた経験の中からしか選択できていないように思えてならない。
 私にとって未経験の分野など山のように存在していることだろう。だとすれば恐らく無限とも言えるくらいの様々から好きなように選べばいいだろうとも思う。でも選んだものをどこまで楽しめるかと自問すると、やはり己の経験、それも若い頃の経験から飛び出すことはできないように思える。

 さいわい、多趣味と言ってしまえば格好がいいけれど、これまで雑多な趣味の中で私は私の人生を過ごしてきた。仕事もきちんとしたとは思うけれど、自分の時間もそれなり見つけ出して数学や物理学や音楽、そうしたカテゴリーに分けることすらいささかの気恥ずかしさもあるけれど、いわゆる「雑学」的、しかも中途半端な興味の中に自分を置いてきたこともあり、若いときに興味があったからこそ大人になってもその種を育てることができたように思う。

 身の丈にあった生活、金はなくても楽しめる生活、そうした生活がいつの間にか「それほど金を意識しなくても楽しめる意識」にまで到達するのにそれほどの時間はかからなかった。税理士のすさび(2)でも書いたように交通費にも着るものにも不自由することはないし、昼食も自作と粗食に慣れてきているからそれほど心配はない。月々の費用も家賃の額は決まっていてそれに加算する費用も僅かなものである。つまり、衣食住の丸ごとを含めても事務所を維持する費用は想定の範囲内に収まるし、将来の見通しも立てることができると言うものである。

 そうした生活をわがままだと思うことのないでもないけれど、仮に事務所を自宅に移し事務所維持費を浮かせたとしても、それでけじめのある今の生活なり楽しみを保持していけるかどうか自信はない。歩いて通勤することによる健康管理、背広ネクタイに着替えることで得られる生活リズムの切り替え、身近な図書館利用、孤独ではあるけれど家族と離れた独りの時間、時に仲間との居酒屋に変身する事務所などなど・・・。それらは恐らく、ここでのこうした生活を丸ごと受け入れてくれている家庭の存在があるからであろう。

 そのことに感謝しつつ、しばらくはこの贅沢を味わっていたいと思う。もちろんこうしたわがままを楽しめる自分の存在は、一義的にはこれまでの人生から自分が作り上げてきたものである。そういった意味での一番の功労者はなんと言っても自分自身ではあるけれど、そんな私を許容し続けてくれている私の家族にも同様に感謝しなければならないだろう。

 最近読んだ本に「一期の盛衰、一杯の酒」の言葉を見つけた。「世の中がどう、人生がどう、と大言壮語したところで、天秤にかけると一杯の酒に過ぎないぜ」と著者は訳していた(城山三郎、「逆境を生きる」、新潮社、P164〜165)。この言葉をどう受け取るかはその人その人によるだろうけれど、なんだか改めて今の自分のままでいいんだと認めてくれているような気がした。

 そして同時に「一杯の酒」は壺中の天でもある。狭い事務所ではあるけれど、こんな小さな世界にも宇宙があることを感じることができる。それは恐らく私だけの狭隘な宇宙なのかも知れないし、場合によっては偏見に満ちた世界であるかもしれない。それでもそこは私だけの世界であり、たとえそれが釈迦の掌に過ぎないとしても、その中で私は自由に飛び回ることができるのである。それが私の今のかけがえのない「遊(すさ)び」になっているのである。

 恐らくそれは小さいながらも達成感に裏打ちされているのだろう。エッセイを一本仕上げる、そんなことだってそれなりの満足を味わわせてくれる。桜や雪祭りの写真を撮りに行き発表する、そんなことも私のこれまでの人生にはなかったことである。朝からコーヒーの香りに包まれながら本を読む、この前よりもトロイメライの演奏が少し上手くなったかな、こんな些細なことにだって贅沢を感じることができる。そうしたことどもは公務員時代とそれほどの違いはないのかも知れないけれど、それでも仕事から解放された「一人の事務所」と言うシチュエーションにそうした場面を置いてみると、小さな達成感の数々は幾倍にも増幅されて私を包んでくれるのである。

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                                     2011.2.18    佐々木利夫


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