その翻訳がどこまで正確なのか、英語・ドイツ語はおろかあらゆる外国語がまるでちんぷんかんぷんの私にそのことを確かめる術はない。それでも数日前から読み始めたこの本は、最初からの一言からしていささか私の意表を衝くものだった。それはこんな序文から始まっていたからである。
「真理が女であると考えてみては――、どうだろう? 哲学者が独断論的な理論家であるかぎりは、女たちを理解できないのではないかという疑問には根拠があるのではないだろうか?・・・女たちが(哲学者に)口説き落とされなかったのは、もっともなことなのだ。・・・」(ニーチエ、「善悪の彼岸」、中山元 訳、光文社古典新訳文庫、P11)
この本を読もうと思った動機については先週書いたばかりだが(別稿「
悪の意味するもの」参照)、この書き出しに釣られて思わずページが進んでしまった。翻訳とは異文化間の意思疎通手段ではあるにしてもどこまで意訳していいのか、翻訳された文章を読むであろう読者の理解をどこまで忖度することが許されるのか、そしてどの辺から誤訳になってしまうのか、そして更には翻訳者は原作者の意図なりをどこまで把握した上で訳さなければならないのか、私にはまるで分かっていない。
この文言が訳者自身の解説であるとか後書きなら、それはそれで訳者自身が抱く一つの理解の仕方として許されてもいいだろう。だがこれは著書としての書き出しなので、ニーチェ自身の言葉である。それにしてもこうした表現が、あの著名なニーチェの、しかも多くの人に知られている著作の冒頭に出てきたことにいささか驚いてしまったのである。最初の数ページで挫折してしまったカントの「純粋理性批判」(別稿「
カントへの無謀な挑戦」参照)とはまるで異なった第一印象を受けたことが、少しこの本を読み続けて見ようかとの気力を私に与えてくれたのであった。
とは言ってもこの本、文庫版で活字も比較的大き目なのだが、500ページを超えるけっこうなヴォリュームを持っている。果たしてどこまでそうした気力が続いていくかどうかはかなり疑問である。それでもこの翻訳は比較的分かりやすい言葉で書かれているので、これから綴られる内容にもよるだろうけれど、比較的付いていけそうな気がしている。
そして数ページ先のことである。
「・・・しかしなぜ、(わたしたちは)
むしろ非真理を望まないのか? なぜ不確実さを望まないのか? 無知をさえ望まないのか・・・」(P20)
「・・・たしかに真理、誠実さ、無私というものは価値の高いものかもしれない。しかし、仮象や、欺瞞への意思や、利己心や、欲望などにこそ、一切の生にとってさらに高い価値、根本的な価値があることを認めねばならないかもしれないのだ。さらに、敬われている善きものの価値を作りだしているそのものが、ある悪しきもの、一見するとその反対に見えるものと危険な形で結びつけられ、繋がれ、編みあわされていること、おそらく本質的に同一であることだって、十分にありうることなのだ。」(P22〜23)
この言葉もまた私に衝撃を与えた。私たちはどのような形として理解するにしろ、例えば嘘をつくことよりも正直であること、盗むことよりも与えることなどを人として当然の思いであり行為であると考えている。だが、そんな当然であることを頭では理解していながらも、時としてそれと真っ向から対立するような行為を私たちはあっさりとやってのけることがある。そうした離反を、程度の問題だと言ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、ニーチェの語るこの言葉は私自身にもそのままストレートに当てはまってしまうことに衝撃を受けたのである。私自身の中に、「分かっちゃいるけど止められない」ことや、「知っていながら知らない素振り」みたいな行動、時には「悪いことだと知りながらもやってしまうこと」のいかに多いかを、日常生活の中にいくつも数えることができる。極端に言うなら、「いいことをする」ことよりも「悪いこと」であるとか「しない方がいいにも関わらずしてしまうこと」のほうが現実的には多いのではないかとすら思ってしまうのである。
何と言っても世界に著名なドイツの哲学者の名だたる哲学書である。どこまで理解できるかは疑問だし、恐らくきちんと理解することなどできないのではないかとも感じている。それはそうなんだけれど、もうしばらくこの本に付き合ってみようかと思いながら、文庫本でもある気軽さもあって通勤のかばんに入れて持ち歩いている。
僅かずつしかページは進んでいかないけれど、それでもこの本がカントの純粋理性批判のときとはまるで違って、僅かにもしろ読んでいる自分の姿にも驚いているのである。カントの著作は書いてあることの意味がまるで分からなかったのに対し、このニーチェは書いてある全部がきちんと理解できているわけではないけれど、少なくとも「ここんところは私とは違う」との反感にしろ、「そうだ、そうだ」との同感にしろ、一つの理解の方向を私に示してくれているように思える。
翻訳とはカントも言うとおり
「ある言語を別の言語に翻訳するときにもっとも難しいのは、その文体のテンポを生かすことだ。文体のテンポというものは、その民族の性格に根ざしたものであり、生理学的には民族の『代謝』の平均テンポに根ざしたものだからだ。忠実に訳そうと試みながらも、原文の格調を崩してしまって、偽造としか呼べないものもある」(P80〜81)が基本にあるのかも知れない。そはさりながら、それが著者や著作の本質によるものなのか、それとも翻訳者の翻訳の巧拙によるものなのか、それ以前にカントとニーチェの差が私の能力が追いついていける範囲内にあるかどうかという射程距離の問題なのかを区別する指標にはなりそうにない。
でも、この本の中にときおり表われるカント批判の文言にも多少は励まされつつ(
「カントは人間の新しい能力、すなわちアプリオリな総合判断の能力を発見したことを誇りに思っていた。たとえカントがそのことで思い違いをしていたにせよ・・・」(P38))、私にとっては世紀の大挑戦、かつ世界最高峰とも言えるようなニーチェの「善悪の彼岸」に、理解しようとの意気込みは多少割り引きつつも、とにかく読み進もうと登り始めたのである。6月19日現在の登攀記録は、まだ98ページである。全529ページからみるなら日暮れて道遠しではあるけれど、「まだ音は上げないぞ」、「ギブアップするにしてももう少し進んでからだ」との意識は、今のところ維持できているようである。たとえそれが挫折寸前のやせ我慢に過ぎないとしても・・・。
さてそこで自戒を一つ。哲学ってのは聖書とも似ていて抽象的な言葉で語られることが多い。そのため、ついつい自分の都合の良いように理解してしまいがちである。まあ、この歳になってニーチェの善悪の彼岸一冊読んだだけで彼に心酔し、哲学のなんたるかをすべて理解してしまったかのようにはしゃいでみるのも悪くないかな・・・、ともやや皮相的に思いつつ、さあ明日からもニーチェに挑戦である。
2011.6.19 佐々木利夫
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