この小さなひとりの事務所が、時折黄昏を待って仲間との居酒屋に変身することは何度も書いたことがある。そんな居酒屋での数日前の出来事である。いつものように千円会費で仲間と二人で酒盛りを始めることになり、近くのスーパーで仕入れた材料で鍋の支度も整い用意は万端である。と、少し早めに到着した仲間が玄関を入るなり突然、「大変だ、大変だ、ちょっとパソコンのスイッチ入れてみて・・・」ときたもんだ。何事が起きたのかといぶかる私に、彼はインターネットで「○○××」の名前を検索してみてくれないか、とのたもうたのである。

 私はその名前をまるで知らなかった。知らないからと言って別になんてことはない。芸能にもスポーツにも疎いことは自他ともに認めていることだし、どんなに著名なゴルファーやサッカー選手の名前を耳打ちされたところで、私の頭のファイルにはその片鱗すらも入っていないのはそれほど珍しいことではないからである。ましてや芸能人のゴシップなどは仮にネットで日々更新されるトピックのトップネタになっていたとしても、何の興味も湧かずクリックすることもなくパスしてしまう。まあ言ってみれば私の日常が世俗から少し遊離して、多少仙人じみた生活に入り込んでいるせいなのかも知れない。

 ともあれ検索サイトに言われた名前を入力することにした。最近の検索サイトは、入力する用語の人気が高いときは最初の一文字二文字入れただけで関連しそうなキーワードの全体が10数行にわたって表示されるようになっている。余計なお世話と言えばそれまでだが、時には重宝なこともあるのでそれほど目くじらをたてることもあるまい。さて要請された名前の入力である。なんと姓二文字を入れただけなのに「○○」で始まるいくつかの文字列が並び、しかも目的である「○○××」の氏名は並んだいくつかのキーワード候補のトップに表示されたのである。

 この人名は私の記憶にまるで結びつかなかったので、「こいつは一体何者なんだ」と彼に聞いた。そして、その返事に仰天するくらい驚いた。最近大津市でいじめによって自殺した中学生の事件が話題になっているが、なんとこの人物はその中学生をいじめたとされる同級生の名前なのだそうである。
 でも考えてみると少し変である。当事者は中学生である。未成年であることは当然ながら、場合によっては14歳以下の刑事未成年である可能性だってある。しかも警察もいろいろ捜査はしているようだが、まだ容疑者として特定の人物が逮捕や補導すらされていない事件である。そんな事件に関係する者の名前が検索エンジンのキーワードとして表示されることはもちろん、事件とはまるで無関係な札幌の一税理士である彼にだって分かるはずがないではないか。

 事件(自殺)が起きたのは9ヶ月ほど前らしいが、両親は学校や教育委員会や警察へ事実関係の調査について訴え続けていること、更には学校や加害者とされる少年の両親に対する損害賠償訴訟を起こしたことなどから、この数日で急激にマスコミに取り上げられるようになってきた。そんなこんなで私も事件のあらましについては新聞テレビを通じて知っていたが、事柄の性質上、自殺した少年の名前はもちろん関係者の氏名についても何一つ報道されていなかったはずである。もちろん、私も知らない。そんな個人情報が、片田舎の居酒屋に飲みに来た税理士風情に分かるはずなどないはずである。

 だが彼の言い分はこうである。インターネットで「大津市」であるとか「いじめ」などの用語で検索すると、この中学生の自殺に関連する情報がなんと数十万件もヒットするのだそうである。そしてそうした情報の中には、3人だとされる加害生徒や事件に関係する人などのあらゆる情報が含まれていると言うのである。私は確かめてみたわけではないのだが、加害したとされる少年の実名はもとより生年月日から住所、自宅の電話番号、転校の事実や転校先、両親や祖父の職歴などなど、まさに「あらゆる情報」が流れているのだそうである。彼はそうした情報の中から、この加害少年の筆頭とされる「○○××」の名前を知ったのだそうである。

 検索結果は瞬時に画面に現れた。そして再びどぎもを抜かれたのは、そのヒット数が数千件に及んでいること、そして目次の表示画面でありながらそのトップに当該少年の顔写真がずらりと並んだことであった。もちろん私はその顔がその少年本人のものなのかどうか知らない。同じ写真も複数あったし異なる写真もあったが、そのいずれもが同じ人物の顔であることはすぐに分かった。その写真がパパラッチのような方法で盗み撮りされたものなのか、それとも卒業写真や仲間同士のスナップ写真などから切り取られたものなのかは分からない。それでも加害者とされている中学生本人の写真がいきなりインターネット画面に溢れるほど表れたのである。

 しかも、しかもである。それは単に顔写真の表示だけにとどまるものではなかった。数ある写真の中には、警察が指名手配犯として公開するときのよう手配写真に似せて加工されたものまであり、その画像から複写されたものなのかも知れないが、同じような写真がいくつも出てきたのである。

 飲み仲間の税理士の話をもう少し書こう。彼によると、インターネットに流されている情報は本人のものだけでなく、彼の祖父が定年まで勤めていた職場の情報や退職後に再就職した職場の情報にまで及んでいるのだそうである。そして、その再就職した職場へも採用したことを批判するような書き込みがされているのだそうである。そう言えば、数日前にこの事件に関連して調査不足を批判されている学校や教育委員会や警察に対し爆破予告のメールが入り、休校騒ぎになったこともあった。

 この予告は当然のことながら匿名であったし、恐らく数千件数万件に及ぶ顔写真を含むネットの情報もほとんどが匿名であろう。いわゆる「顔のない正義感に燃える国民」が大挙してあることないことをネットに書き込み始めたのである。顔写真の多さだけを見て私はこの検索一覧を閉じたから、それぞれのサイトの中味を知ることはない。でも恐らく例外なくその加害したとされる少年を批判し指弾するものであろう。まさに瞬時にしてネットはこのいじめ事件で炎上したのである。

 数日後、インターネットでの炎上に関する新聞記事が掲載された。

 「大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が自殺した問題で、いじめたとされる少年や学校関係者らを糾弾するインターネット上の書き込みが止まらない。誤った情報もあふれ、無関係の人が標的にされるケースもある。・・・『人殺しの親族を病院が雇うのか』『今からいくから待っとけ』・・・。病院には6日夜から匿名の電話が殺到した。『加害者の祖父が滋賀県警のOB、病院に天下り』という掲示板への投稿がきっかけらしい。・・・『いじめ問題と一切関係がありません』。職員が説明しても聞く耳を持つ人はわずか。一方的に話して電話を切る。「言い分は分かった。でもネットが事実だと思う』と言い残す人も。電話は3日間だけで200件、ほかに無言電話が500件。・・・名指しされた病院職員の男性は元警察官で、中学校近くの交番に勤めたことはある。しかし生徒とは全く無関係』・・・。『いじめに抗議しよう』という掲示板の呼びかけに応じ・・・学校前に・・・集まったのは約20人。・・・ネットで入手したという加害生徒とされる3人の『実名』と顔写真を貼り『死をもって償え』と書き込んだ(プラカード)を掲げている」(2012.7.23、朝日新聞)

 行政や司法が常に万人の満足のいく結果を出せるとは限らない。それは権限や能力の制限などから一面仕方のない場合もあるだろう。しかも行政や司法だって誤った判断をする場合もあるだろうし、また仮にきちんとした判断であっても全部の人に満足のいく結果を示せることなど不可能だからでもある。ましてや当事者にとってみれば、恐らくすべて(と言ってもいいのではないかと私は思っている)の民事・刑事などの裁判で、勝訴した側は常に公正な判断だと判決を褒め上げ、敗訴した側は例外なく違憲・違法・不当な判決であると批判していることからも分かる。

 「目には目を、歯には歯を」の意味を私が十分理解しているとは言えないけれど、私たちは長い歴史を通じて私刑(リンチ)などの自力執行に伴う弊害(恐らく偏見による先入観や人種差別、更には不当過重な量刑などによるものだっただろう)を避けるために法律に基づく司法という制度を発明したはずである。時に司法にも権力者に対する阿諛や被告に対する様々な偏見、そして誤った自白による冤罪など、その機能を失う場面がなかったとは言えないだろう(別稿「自白と可視化」、「生き残っている魔女」参照)。それでも判断を被害加害の当事者や利害関係を持つ者ではなく公正と考えられる第三者に委ねるシステムの中に、少しでも誤りや偏見を避けようとする思いを委ねてきたはずである。

 それが現在のインターネットは、こんな形で処刑しようとしているのである。しかも事実の認定はもちろん証拠なども皆無であり、かつ判決者は匿名である。こうした情報はネット上に垂れ流しにされ複写され、事実の存否とは無関係に増幅され、数万数十万更にそれ以上の数へと感染を広げていくのである。しかもその情報はインターネット上に永久ともいえる期間残ったままになり、強制的に削除することは不可能に近いと言われている。

 この頃NHKのEテレで放映されている「TED」(テクノロジー、エンターティメント、デザインの頭文字)と呼ばれる番組を見ている。その中の話で、ある人がネットに書き込んだ発信情報の数々を、その人の死後も管理するようなサイトがあることを紹介していた。つまり発信された情報はその人の死後も残り続けるのである。これはむしろ一度発信されてしまった情報は、後からはコントロールが不能であることを意味しているのかも知れない。

 そんなコントロール不能の情報が、発信者の望む望まないにかかわらず発信者の死後までも生き残っていくのである。ネット社会の情報の記憶容量は恐らく無限といってもいいだろう。ユーチューブという動画サイトがある。世界中からの投稿動画であふれているが、出所を忘れてしまったのでデータを明らかにすることのできないのが残念だが、数分間に48時間分もの動画が投稿がされていると聞いたことがある。投稿の多さに驚くよりも、そうした投稿のデータが保存され蓄積されていく現実の方がもっと驚きである。

 恐らく無限とも思えるネット情報の多くは毒にも薬にもならないものが多いのかも知れない。だが検索エンジンの発達は、そのシステムを利用して広告に結び付けることで商業ベースに乗せようとする要求とあいまって、飛躍的に使い勝手がよくなっている。「便利になった」と言ってしまえばそれまでのことではあるけれど、それは検索者の意図するどんな要求にも応えようとすることでもある。どうでもいい情報もだけれど、重宝な情報も、時に悪意に満ちた情報であっても要求さえあれば即座に手許に届くことを意味している。

 人は時に自分に都合のいい情報だけを信じたがる傾向を持っている。そしてその都合のよさが例えば善意、例えば正義、例えば信念などに裏打ちされているときは最悪になるようだ。あたかもその信念が時代の要請であり国民全体の考えでもあるかのように自らを麻痺させる。そしてそれが大衆を巻き込んだ無批判な付和雷同にまで炎上してしまうことは、常に自己に問い直してゆく必要があるのではないだろうか。つい最近も政府が原子力発電の将来像をどう考えるべきかの公聴会を開いた。発言者は抽選で選ばれたとされているが、その中に電力会社の役員や社員がいたと批判の嵐が巻き起こった。原発ゼロの発言に拍手が沸き、継続の意見には野次が飛んだという。言論の自由もまたどこかで歪められようとしている。現代は人々の心に、「反対意見でも冷静に聞く」とか「批判する前に事実を確かめる」などと言った冷静さを期待することなど不可能になってしまったのだろうか。

 自らを匿名という無責任の高みに置き、事実であることの検証もないまま思いつきの私刑をはびこらせる世の中を、いつの間に私たちは作り上げてしまったのだろうか。そしてそうした情報にどっぷりと浸かったまま、その状況に気づかないでいること、気がついても知らん振りをしていること、もしかしたらそうした状況をどこかで楽しんでいること、時にそれを無批判に事実と混同してしまうこと・・・、それらの承認のことごとくが発信者との共同正犯になっているような気がしてならない。たとえその情報から有益な結果が得られるような場合が多々あったとしても・・・である。


                                     2012.7.27    佐々木利夫


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私刑の時代