老いることと死ぬこととはまるで違うことなのではないかと書き、やっぱりよく分からんと匙を投げたのはた最近のことである(別稿「老いることと死ぬことと」参照)。そしてこれを書いてから、命そのものの意味が一層もやもやしだしてきたようだ。それは一言で言ってしまうなら、「人はいくつくらいまで生きられるのだろうか」との素朴な疑問になるのかも知れない。

 もちろん例えば政府が発表する日本人の平均寿命の数値や、その国際比較などを知らないではない。そしてそれが0歳児が何歳まで生きられるかを意味する統計であり、それぞれの年齢に対応した平均余命数も同時に公表されていることも知っている。その数値はまた、税法の一つである相続税にも関連している。
 どんな方法でそうした数値がまとめられているのかなど詳しい内容はよく分かっていないけれど、例えば生命保険などはその統計を利用して保険料率を決定したり、自動車事故で受けた生涯の逸失利益などの計算にも使われるだろうことも知識として知らないではない。

 最近の日本人の平均寿命としては、いわゆる0歳児の平均余命数値としての男79.64歳、女86.39歳が一般的に知られている。これは昨年(平成23年7月27日)に厚生労働省が発表した簡易生命表によるものである。そして平均余命表は主な年齢ごとに発表されており、例えば70歳男性なら残り15.08年、同じく女性なら19.53年と記されている。つまり70歳まで生きた者は、男ならあと15年、女なら20年ほどまだ生き残れるであろうことを示しているのである。もちろんこれは単なる統計数値であるから、中には明日死ぬ人もいるだろうし100歳を超えてまだ元気でいる人もいるだろうことは当然である。

 恐らく年金の支払い基金などは、こうした表をもとにこの年齢の人にはあと何年支払いを続けなければならないか、そのためには原資がいくら必要になるかなどを計算していることだろう。そして統計なのだから、それは平均値としてふさわしい見積額になることだろう。

 それなら先に書いた「人はいくつまで生きられるか」の疑問は、こうした統計によって決着がつくような気のしないでもない。人は少なくとも統計的に言うなら0歳児は100まで生きることはなく、平均値として80歳から86歳で成仏することになるだろうからである。
 それでも私は「人はいくつまで生きられるのか」の疑問が消えないのである。それは現実として人が80歳前後まで生きることができるとの意味ではなく、生物としての「人の寿命」はいくつくらいなのだろうかとの疑問の答えにはなっていないからである。

 私は今生まれた男の子が平均的に80歳まで生きるだろうことを否定したいというのではない。でもそれは生物として80歳まで生きることを意味しているのではないと思うのである。人も含めて多くの種が自らの子孫を残す手段をどのように獲得していったのか、それが人類の場合にどんな形で残されているのかなどについて私はまるで知らない。

 きちんとしたデータを示せないことを承知で言うのだが、縄文時代までの日本人の平均寿命は14〜15歳くらいであり、江戸時代になってもせいぜい30歳、明治や大正期にいたっても40歳前後だったとの記述を読んだことがある。もちろんそうした背景には数多くの戦争があったという事実を否定することはできないだろう。人が人を殺すことは若者が死ぬことであり平均としての人の寿命を短くする要因になるからである。だとするなら戦争の存在は生物学的な寿命とは相容れないような気のしないでもない。
 ただそうは言っても、弱肉強食もまた一つの生物が獲得した進化の過程であると考えるなら、断定するのは難しいかも知れない。他の種の死(たとえそれが植物の種(たね)や若芽の類だったにしろ)の上に生き残る種があると理解してもいいのなら、そうした進化の過程の一つに戦争を含めてもいいとする理屈も成り立つような気がしてくるからである。

 こうして考えてくると、多くの種が自らを害するような毒のある他の種を本能的に避けるような行動をとったり、ある種の毒を中和するような食物の摂取を選択することもまた、種の継続の選択肢としてその種の寿命に関与させる因子の一つとして考慮しもいいのだろうかとの疑問も湧いてくる。それは一種の予防や治療であり、つまるところ現代医学にもつながる考えにもなってくるからである。寿命の考え方の中には、条件を整えてやった場合の寿命(生理的寿命)と実際に生活している場合の寿命(生態的寿命)の二つがあると聞いたことがある。ただそうした考えによっても、ある生物が種の保存の手段として獲得していった様々もまた、そのすべてを寿命の定義に含めていいのかの答えは出そうにない。

 ただ少なくとも現在における日本人の80歳前後の寿命はつい最近のことであり、それには第二次世界大戦終了後日本には戦争が起きていないこと、急速に進展した医療や介護の充実や普及などが深く関わっていることなどが関係していることは明らかである。もしかしたら日本では殺人事件が少ないことだって関係しているのかも知れない。ただ少なくとも医療の充実が遅れていた時代の人間の寿命は恐らく30歳前後であり、それが人間の種としての寿命ではなかったかだろうかとの思いは消えない。

 だとするなら私たちが現在得ているそれ以降の50年にも及ぶ寿命の伸張は、生物としてどんな意味があるのだろうかとの疑問が自然に湧いてくる。以前私はこのことについて一応の納得が得られたと書いたけれど(別稿「昔話のおじいさんとおばあさん」参照)、極端な寿命の伸びが医療や介護などの普及による最近の成果だとするなら、少し考え直さなければならないかも知れない。ともあれ、平均余命表で言うなら70歳を超えた私はあと15年、妻はあと20年ほど生き延びることになる。もちろんこれは単なる平均でしかなく私自身や妻本人の寿命を示すものではないことは前に述べたとおりである。

 生命保険会社はそうした余命の平均値の中で保険料掛け金と払い戻し金とを考慮してその年齢に応じた商品開発をしてくのだろうし、年金などの支払い計画もそれに沿って立てられていくことだろう。平均とはそういう意味で正しいだろうけれど、しかし個々の命の長さはまた別のものである。そうした統計は時間としての長さを記すだけであって、その時間の持つ意味までをも示すものではないからである。

 恐らく少子高齢化はこれからも続いていくだろうし、質の高い医療への要請も一層高まっていくことだろう。そうした時代が続いていく中で、私たちは生物としての寿命をはるかに超えた時間を獲得したことをどのように理解すればいいのだろうか。そうした時間は、かつて私たちが「余生」と呼んでいた意味や長さを遥かに追い越し、途方もない混沌の中に人々を追い込もうとしている。

 結局私は、寿命の持つ意味を私自身の中で消化することができなかった。その理由は「命」そのものの持つ不確定さにあるのかも知れないけれど、ただ一つ「命ってのはどう考えてもやっばり厄介なものだ」という確信めいた呪文がどこかに滓のように残ってしまうのを同時に感じている。


                                     2012.4.4     佐々木利夫


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