私は長い間老いと死を直線上の経過と終点としてだけ考えてきたような気がする。そしてこの二つを、どちらかというと「生」につながる「経過」と「その終点」としてひっくるめて考えることの中に、人の一生を押し込めてきたような気がする。しかし、70歳を過ぎてみると、この二つはまるで別物なのではないかと思うようになってくる。

 そんなにしみじみ考えなくたって、昔から生老病死を四苦としてそれぞれ独立したものとして考えていたことは私たちの日常でも当たり前のことだったのかも知れない。生まれてすぐ命を亡くすことだって珍しくはないし、幼児や若者の死だって現象としては当たり前に存在しているからである。それでも、死が一つの終点であることは私たちが無意識に公知の事実として納得してきたことであり、その出発点に「生」たる生まれてきた事実を置き、その終点に死を置いた理解に違いはないだろう。

 もちろん始点から終点にいたる経過は必ずしも「老」と「病」に限るものではない。事故や殺人や自殺にいたるまで、それぞれの人にとっての命の終わりは様々であろうからである。それでもそうした経過の中に人は老いと結びついた死の現実を、一つの自然な流れとして捉えてきたような気がする。

 それがどうして突然「老」と「死」とを別物として考えるような思いが湧いてきたかと言うと、きっかけは一冊の本の僅か数行の記述にあった。読んでいて突然、、なぜか「あっ」と思ったのである。

 「じっと立っているあいだに、気づいたのよ、これまで気づかなかったことに。わたしは自分に言った。『わたしはヴァルではない』って。すばらしい気分だった。すこく安らかな気分。わたしは言ったの、『わたしはヴァルではない。年寄りの女でもない。これでも、あれでもない。ただ、わたしであるだけ。わたしは、わたし! そのことがすごく好きだ!』って」(ポール・マクダーモット著、宇丹貴代実 訳、「心の旅人たち」・ポプラ社、P170)

 ヴァルは74歳の余命宣告のされているがん患者である。この実経験をもとにしたこの物語は、「わたし」と「ヴァル」との出会いから一年半後に訪れた彼女の死までを綴ったものである。「わたし」は在宅ホスピス支援活動(末期の患者が自宅で死を迎えられるように支援するボランティア活動)の役目を持っている、ヴァルから見るならまだ若い男である。

 ヴァルは何度かの「わたし」の訪問を受け入れ、そして入院をくり返す。そして時に不機嫌に、時に内省的に、時にもうろうとなりながら、やがて静かに息をひきとる。

 この本を読んで最初に思ったのは、何をもって「病」と定義するかはとても難しいことだと感じたことであった。それはつまり、人はもしかしたら「老」で死ぬことはないのではないかという思いでもあった。歳をとること、そして一定の寿命を持つことは、多くの生物が自らの子孫を新しく生み出すための方法として進化の過程で生み出した「命」としての選択である。その終末を「死」と呼び、新たな「生」への架け橋として自らが消えていくことは、有性生殖を選択した種が継続の条件として自らに課したものである。それを神との契約などとは呼ぶまい。それは自らが選んだ種の保存ためのシステムだからである。そうすることによって、その種は「永遠の命」を得ることができると考えたからである。(別稿「老いることの贅沢」、「体外受精の意味するもの」、「男のオッパイ」参照)

 だから個としてターミナルとしての「死」はあるにしても、それは「老」とは必ずしも結びついてはいないのではないだろうかと思ったのである。老衰で死ぬことを私たちは時に大往生と呼び、この世に生きてきたことの一切を押し込め、他者のみならず自分にとってもやり残したことや未練すらもないような印象をその中に含めてきた。
 でも本当にそんな「老いのかたち」が存在するのだろうかとふと思ったのである。ある日健康診断を受け、あなたには脳にも心臓にも胃腸や骨格にもなんの異常もありません、健康そのものですと告げられる。そして喜んで帰宅した翌日の朝、医者はあなたの体をもう一度検査して、こう告げる。「老衰による死です」。こんなことが現実にありうるのだろうかとの疑問である。

 健康診断や医師の判断が万能でないことくらい私だって知っている。健康ですと宣言された帰り道に、車に轢かれることだってあるだろうし、心筋梗塞を起こすことだってあるだろう。健康であるとの宣告に喜んで少し贅沢な食事をし、それを喉に詰まらせて死ぬことだってあるかも知れない。でも健康のまま突然に「老衰」に移行するようなことは私にはないように思えるのである。
 だとするなら、これは絶対ではなく「大多数は」との条件付きではあるけれど、「人は老いではなく病気で死ぬ」と言い切ってもいいのではないだろうか。年老いて人は死に近づいていくけれど、老いそのもので死ぬことはなく、事故や自殺などを除くならあくまでガンだとか肺炎だとか心筋梗塞などの病気で死ぬのではないかということである。老いとは病気にかかりやすい体質への変化の誘導に過ぎないのではないか、との思いである。こう理解することで一つの死の定義を完結させることが可能である。

 ところがこう考えてくると、もう一つどこかで死と老いとを結び付けてもいいようなへそ曲がりが頭を持ち上げてくる。例えがガンは病気であろう。悪性の腫瘍が体内に発生し増殖して、細胞が本来機能すべき生存のための作用を放棄してしまうからである。こうした機能を一つの病気としてとらえることは可能である。何をもって病気と定義するかはとても難しいと前述したけれど、例えば単純に「病院で治療を受けることのできる症状」を病気と定義することができるなら、ガンも脳梗塞もあらゆる体調の悪さも病気にあたることになる。だとするならガンによる死は病気による死であって老いによる死ではない。

 でももう一つ、細胞は基本的にアポトーシスの機能を持っている。アポトーシスとは「細胞の自死」の働きである。それがどんな場合にスイッチが入るのか私には分からないけれど、例えば「正常な細胞がガンになる」ことは生物としての自然の摂理であると理解することも可能である。その摂理を神の意思のような神秘的に考えるつもりはない。けれども生命はなんらかの形で自らを死へと追いやる機能が、命そのものの中に備わっている、いやむしろ約束されていると考えたって何の不思議もない。つまりそうした機能のスイッチの一つに「老い」があり、その必然的結果として「死」があるとの考えである。そしてたまたま私たちはそうしたスイッチを入れられた状態から自死までの経過を、単純に「病気」と名づけただけのことかも知れないからである。

 この本の著者である「わたし」は著書の中でこんなことを言っている。「ヴァルの骨髄腫はただの病気ではなく、実在的、意思を持った存在であり・・・」(P200)。もしかしたら病気とは意思を持った存在なのかも知れないのである。だから私たちは「約束された死」にも病気との名前をつけてしまったのかも知れない。

 老いと死について意気込んで書き始めたのだが、結果的にどうもしっくりこない結論になってしまった。つまりやっぱり分からないが実感なのかも知れないからである。なぜ私が冒頭で引用した文章に「あっ」と感じたのかも、実はよく分からないでいる。感じたことは事実なのだし、それが私に何かのヒントをくれたことも事実なのだが、それが何なのかもやもやしたままになっている。

 さて余談だがこの本を読み終えて、冒頭よ掲げた「・・・私はヴァルではない・・・わたしは、わたし! そのことがすごく好きだ・・・」の文章が、この本の最終ページにヴァルの遺影の傍らに添えられていた。
 つまり私が思わず「あっ」と思った感動は、私ひとりの独創的な意識ではなく多くの人と共通するであろう思いでもあったのである。そして私のオリジナルな感触ではなかったことにいささかの落胆を覚えつつ、同時に私もまた多くの人と似たような感動を共有できたことを素直に喜べたのであった。


                                     2012.3.16    佐々木利夫


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