先週、戦争について書いているうち(別稿「戦争体験と平和」参照)に、つい最近読んだ本のことに触れないのはどこか間違いでもあるかのような気持ちにさせられた。いやいやそれとも少し違うかも知れない。麻山について書こうとしているうちに、平和の意味についての私の立ち居地があまりにもぐらついていることに恥ずかしくなってしまったというのが事実かも知れない。

 知らないことが山のようあったところで、そのことを恥ずかしいと思うことはない。どんな人だって知っていることより知らないことの方が、何倍も何十倍も、もっともっと数百倍数万倍も多いことくらい当たり前であり、そのことを恥じる必要などないと私はいつも思っていた。時に胸張って「知らないことの多いこと」を表示したことだってある。

 でも、どこかで知らないことの中で「恥ずかしい無知」も存在することを、思いがけずに知らされる場合がある。そんな一つに「麻山事件」と呼ばれるできごとがあった。麻山とは中華人民共和国(中国)の小さな地方の名称である。第二次世界大戦で日本は中国の一部を「満州」と名づけて独立させ、皇帝まで即位させて統治するようになった。

 満蒙開拓と名づけられて、「せまい日本にゃ住み飽きた」みたいな標語の下、日本人の移住は国策として推進され国民もその気になった。そんな満州のハルピンに近い地域にこの麻山がありその近くに開拓部落があった。だが、開拓の夢は戦局の悪化とともに次第にしぼんでいき、日本の劣勢を知るや昭和20年8月9日にソ満国境からのソ連軍による奇襲作戦が開始された。こんな状況の下で麻山事件は起きた。

 私はこの事件について何も知らなかった。麻山という地名はおろか、麻山事件と呼ばれている事実についてさえもまるで知らなかった。私がこの事実を始めて知ったのは、つい最近「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」(中村雪子 著、草思社)を読んだからである。

 この事件の概要は、この書のとびらを引用することで理解できるかも知れない。

 「昭和二十年八月十二日、満州の東部国境に近い麻山において、避難途上にあった哈達河(はたほ)開拓団の一団がソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決するという事件が起った。介錯は四十数名の男子団員により、小銃を用いて行なわれた。男子団員はこの後、ソ連軍陣地に斬り込むことになっていたが果たせず、間もなく終戦を迎え、一部の人々は生きて祖国の土を踏むことになったのである」

 「生きて虜囚の辱を受けず」は1941年に陸軍大臣東條英機が示達した「戦陣訓」の一節であり、あくまでも軍人に向けられた言葉として軍隊手帳にも記されていた。だがこの言葉だけが独歩して流布したように、この一節は軍人のみならず日本国民の心にまで広く浸透していった。

 もちろん戦争とは洋の東西を問わず殺戮や略奪の歴史であり、それはそのまま強姦や暴行などなど、敗者にとっては蹂躙されるがままの異常な世界である。日本は外国から海で隔離された島国として天然の障壁に守られていたが、ヨーロッパやアジアなとの国境という単なる線引きだけで区画されていた国と国との争いは、そのまま勝者のなすがままの状態にあったことは歴史の示すところである。異民族の交流であるとか、異文化や伝統の交流などと言ってしまえばいかにももっともらしく聞こえるが、その実体が強姦と略奪の繰り返しであったことは紛れもない事実である。

 恐らく日本軍といえども外国と戦って勝利した日清、日露戦争では同じようなことを繰り返しただことろう。それは織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と続く戦後時代の国盗りでも何ら変わることはなかったかも知れない。そして第二次世界大戦でも日本軍が勇ましく進軍ラッパを鳴り響かせていた頃までは、似たような状況下にあっただろうことは、南京事件などの史実から知る限り想像に難くない。それが戦局の劣勢以後は立場が逆転した。日本軍の世界各地への侵攻はついに満州国への日本人移住をも生んでいたから、敗戦が濃厚になってからは日本人の居住する地区としての満州国を失う恐れのみならず、日本本土までが外国軍隊に占領される事態を招くかも知れないとの恐れが生じたであろうことは当然のことであった。こうした外国からの侵攻という事態は元寇以来のできごとであり、日本人にとっての初めての経験であったような気がする。

 その恐怖は単に日本軍人が殺害されることだけに止まるものではない。一般人、それは老人も子どもも女性も、更には赤ん坊すらも含む非戦闘員すべてに対する殺戮の恐怖であり、女性にとっては強姦の恐怖である。そうした殺戮や強姦は単なる観念的な恐怖だけではない。戦争そのものが示す現実であり、だからこそ事実としての恐怖だったのである。

 もちろん麻山だけがこうした状況だったわけではない。沖縄もそうだったし、アメリカ進駐軍の日本上陸に際しても同じような現象が見られた。軍人にとってみればいかに敗走中であろうとも敵との遭遇は殺されることであり、仮に殺されなかったとしても軍隊手帳に記されている「虜囚の辱め」に代わるだけでしかないことは明らかである。そして婦女子にはこれに更に陵辱が加わるだけのことでしかなかった(続く)。

                                    [麻山があった(2)へ続きます]


                                     2012.11.28     佐々木利夫


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