これは逆説的な意味で使ってみただけのことなので、ほんとうにそうだと信じているわけではない。でも、これだけ長く人生を続けていると、多くの人たちの思いの中に「平和」という輝石みたいに貴重なかたまりが、いつの間にか薄汚れてしまいつつあるように感じられてならない。そして最近の私は、その薄汚れた包装紙を剥ぎ取るためにはどうしたらいいのだろうかと思い、時にこんなことまで考えてしまうのである。

 その思いとは、「人はもしかしたら戦争を直接体験しないうちは平和を感じる感性も失われてしまうものなのではないだろうか」である。戦争が先にあって、それを実体験した者にのみ平和の重さを考えそして伝える資格があるような、そんな矛盾した思いが私をどこかで混乱させている。

 もちろん「平和」とは何かを定義することはとても難しいことかも知れない。単に「戦争のないこと」もまた定義になりうるかも知れないからである。でもそれは同時に「戦争」の意味を問い直すことでもあるだろう。戦争を知っているからこそ、「戦争のないこと」もまた実感として迫ってくるだろうからである。それは決して、温泉に浸かって「極楽、極楽」とうっとり目を閉じることや、美味い料理に冷たいビールを味わい、テレビの野球中継に一喜一憂しながらしみじみと我が身を振り返ることではないだろう。

 もちろんそうした状態を「平和」と定義したところで、なんの不都合もないかも知れない。でも私の中で、それは違うんじゃないかと囁く声が聞こえてくる。そしてそれを「平和」と感じること自体が、私にはまさに平和ボケそのものであるように感じられてしまうのである。

 こんな一文を最近読んだ。

 「・・・週末は病院でボランティアの仕事をし、ナチから逃れてきた大勢の避難民たちを助けた。・・・一か月が一週間のように過ぎた。やがて、最後の審判の日がやってきた。『平和』がやってきたのだ。私はその日をチューリッヒでいちばん大きな州立病院の屋上で過ごした。私たちは、屋上に出られる患者は一人残らず屋上に連れ出した。屋上はほとんど車椅子とストレッチャーで埋め尽くされた。だが誰も不平を言わなかった。私たちは彼らに教会の鐘の音、平和の鐘の音を聞いてもらいたかったのだ。すべての教会が(チューリッヒには百以上の教会があった)同じ時刻にいっせいに鐘を鳴らした。誰もが泣き、誰もが誰かと抱き合った。ある女性の末期患者は、顔いっぱいに微笑を浮かべて言った。『もう逝ってもいいわ。もう死んでもいいわ。この世に平和が戻るのを見届けるまでは、どうしても生きたかったんだけど』」(E・キューブラー・ロス著、続 死ぬ瞬間、P240)。

 私も戦争を知らないわけではない。だが1940年に北海道の片隅で生まれた私にとっての戦争とは、1942年の開戦も1945年の敗戦もまるで記憶に残っていない遠いできごとでしかない。時代区分では戦前生まれに分類されるのかも知れないけれど、私の戦争体験はひもじさを中心とした物資不足に代表される、そんな程度のことでしかなかったからである。

 そのせいなのか、それとも私の勉強不足のせいなのか、私がいかに戦争体験を語り、戦争の悲惨さを伝えようとしたところで、どこか上っ面をなでているだけのような気がしてならない。本当の意味での戦争の悲惨さを伝えることなどとても無理であり、単なる伝聞や他人の意見の請け売りになってしまうからである。

 私の中にはどこか戦争を知らないことに対する後ろめたさがあるのかも知れない。戦争をきちんと理解していないことに対する、隔靴掻痒というか「知らないくせに知ったかぶりをするな」みたいな強迫めいた思いがどこか消えない滓のように残っているような気がする。戦争については10年近く何度もここに書いてきたし(別稿「戦争と平和と」、「終わらない戦争」、「平和ってなんだろう」、「平和利用という名の錯覚」、「戦争と若者」、「12月8日の鳥の歌」、「採算としての戦争」、「祖国」、「ハチドリのひとしずく」、「8月15日」、「真珠湾?」、「パール判事と東京裁判」などなど参照)、関係する本も読んできた。それは決して知識としての欲求だけではなく、理解しようという気持ちもあったからだろうと感じている。

 でもどんなに理解しようと努力したところで、恐らく現在イスラエルとパレスチナ自治区カザフの大規模空爆で死んでいった子どもたちや、内戦で国内が分裂したまま死者だけが累々と積み重なっていくシリアの人たちの抱く平和の思いに届くことなどないだろう。仮に私がどんなにたっぷりと「分かった」と感じたところで、そんな理解なんぞ安全でぬくぬくとした部屋の中で満腹を堪能しつつ眺めている、液晶テレビの画面からの情報にしか過ぎないからである。

 引用したキューブラ・ロスの文章の中の末期患者の女性の一言は、平和の意味を切ないまでに伝えてくれている。彼女に耳に鳴り響いている街中の教会の鐘の音以上に、誰がそれを超える平和の思いを伝えることなどできようか。この本のこの数行を読んだとき、私にも確かにその鐘の音が聞こえたように感じた。加齢とともに感覚が次第に鈍磨していって、よほどのことがない限り感動にまで到達することは稀になってきているこの身だが、この僅かな数行に目頭がじんと来たのは事実であった。

 そして改めて「戦争を知らない者に戦争を語ることなどできないのではないか」、ましてや「平和を語ることにおいておや」との冒頭の思いを重ねてしまったのである。どんな歴史も、経験した者の死とともに記憶は風化していく。経験した者が語り部となってその経験を伝承させていくしかないのだ、との思いがあながち間違いだとは思わない。それでもなお、どんな思いも風化の中で次第に薄れていく事実を止めることなど誰にもできないような気がする。

 それを人は、「歴史から学ばない」と卑下し揶揄するかも知れないけれど、風化していく経験を止めることなど不可能である。伝承もまた風化の中に埋没していくことを私たちは事実として知り、学ばなければならないのかも知れない。そんなことを言ってしまうと現在もなお世界中に続いている数多のテロや戦争を是認するかのように聞こえてしまうかも知れない。広島の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。だが人はあらゆることを忘れ、過ちもまた繰り返していくのである。たとえ映像や書物で残したとしても、実体験の伴わない記憶の風化という現象は止められないと思うのである。

 だから人は何度でも過ちを繰り返すのである。忘れることが過ちを防止する効果を妨げてしまうのである。どうすればいいのだろうか。私たちは過ちの繰り返しを人間の本性として是認し、承認し、仕方がないとして諦めてしまうしかないのだろうか。

 忘れてしまうことを防止することはできないだろう。だとすれば誤りを繰り返さない手段として記憶や伝承に頼ることは解決にならないことを意味している。解決にはただ一つ、反省の結果を日常化していくしかないのではないだろうか。日常化とは「当たり前」になることである。それは例えば「平和ボケ」というような、場合によっては無気力で怠惰な日常と大衆を生むかも知れないけれど、無気力もまた一種の安定へのエネルギーになっているような気がしている。

 戦争を憎み平和を望む能動的な大衆の存在は、当然の反作用として戦いを是認しそこにこそ生きがいがあるとする大衆をも生むことだろう。一方で変化を求めない無気力な大衆の萌芽と成長を望むことも人類の将来の選択肢の中に含まれているだろう。私にはどちらがいいのかよく分からないでいる。ただ少なくとも現在の日本の大衆が、後者への道を辿っていることをなんとなく感じているのみである。

 自衛隊を国防軍と呼び名を変えようとする動きがある(自民党の年末へ向けた衆議院議員選挙の政権公約の一つ)。また我が国の核についての「作らず、使わず、持ち込まず」の姿勢を知りながら、「核兵器に関するシュミレーションぐらいやつたらいい」と放言する政党もある(日本維新の会、石原慎太郎代表)。タカ派、ハト派の違いとは少し異なる場面が現れてきている。戦争を知らない一票を持つ国民が大多数を占めている我が国は、まさに大きな選択を迫られようとしている。


                                     2012.11.22     佐々木利夫


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戦争体験と平和