(前項からの続き)こうした状況はまさに異状な状態のもとでの出来事である。この「麻山事件」(中村雪子、草思社)を読んで思ったのは、当事者であった彼ら彼女らがまさに人間の極限状態にあったことであった。それは生きるための極限を超えて、人間としての極限とまで表現していいくらいの非常識な状況下であった。そんなとき人は何を考えるのだろうか。

 文章にしてしまえば僅か数語に尽きる。「婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ」(同書P5)であり、その思いは自らの死を覚悟した兵士、婦女子のみならず老人や子どもを守りつつ敗走してきた兵士の当然の覚悟であったことだろう。そしてそれは極限まで追い詰められて虐殺か陵辱か餓死の中からしか選択肢のなかった非戦闘員たちの当然の思いでもあっただろう。互いの了解、場面によっては婦女子からの要請もあっただろう状況の下でこの麻山事件は起きた。

 「・・・そこで壮年男子の十数名が銃剣をもって(婦女子を)刺殺することにした。午後四時半より約一時間に亙り同地に集合した婦女子四百貳拾壱名を無慙にも刺殺し、・・・」(同書P7、この文章には参議院在外同胞引揚委員会に提出された報告書より引用したとする著者の注が添えられている)。


 この場で兵士も含めた当事者全員が壮絶な死を遂げてしまったならば、事件はそれがどんなに悲惨で残酷であったとしても語り継ぐ者のいないまま後世に残されることなどなかっただろう。だが殺されたはずの婦女子の中からも死線を超えて生き延びた者がいたし、前項(1)で引用したこの本のとびらの文章でも分かるとおり、この場にいた「・・・壮年男子の一部は斬込隊を組織して敵陣に斬り込んだというがその過半数が新京、ハルピンへ逃れ或はシベリアへ収容された後日本に帰還した」(同書P7)者もいたのである。

 死んだ者は語ることはできない。だが生き残った者、間接的にもせよ後日この事件を知った死んだ者(はっきり言うなら兵士に殺された者)の遺族にとってみれば、「なぜ?」の思いが消えることはなかった。それは基本的には「殺した側の兵士が生き残って帰国した」事実に帰することができよう。

 「・・・子供を生かそう逃がそう、大人達が何人かずつ分れて子供を引率してでも野に伏し山に隠れてでも、子供が最後の一人になっても守ろうとしなかったのは何故?」(同書P60、生き残った女性から殺した側の兵士の一人に向けられた手紙からの抜粋、以下同じ)
 「敵に銃口を向けられて死んだのなら判る。死ぬのはいやだ──と叫んだ子も射たれた。守られるべき人に殺される・・・殺した人が生きている。何故?」
 「強姦されてから虐殺されるより死のうと思ったかも知れない。婦人達の気持ちはよく判ります。が、その時守っていた男の人達が何故生きれるところまで生きよ、子供を守るのは母ではないかと強く言い聞かさなかったのか」
 「自分のして来たことを・・・はっきり言えない、書けない、人に知らせない、語らない、語れない人が麻山の生き残りの中にいるのは何故?」
 「(生き残った者が後日)日本軍に反乱者として捕縛をかけられ(たとあるが)、・・・生き残りの男子は多くの婦女子を惨殺したからと思われたからでしょうか」
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そうした疑問は、たとえ加害側として責められている兵士の心に、「(迫る銃砲弾の響きのなかで)・・・やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から『私たちを殺して下さい』と、まず女たちが声を上げた。同時に男子団員からも、・・・『自決しよう』 『日本人らしく死のう』 『沖縄の例にならえ』 『死んで護国の鬼となるんだ』 そんな言葉がつぎつぎと発せられた」(同書P178)などの事実があり、「『麻山』の男たちは、戦後三十余年を、『あの時ああしていれば・・・』という問いを、おのれの内に問いかけては涙を流して来た」(同書P144)のような思いが消せないまま己を苛み続けていたとしても消えるものではなかったかも知れない。

 それはまさに被害者側やその遺族に事件そのものの切羽詰った状況下での記憶が風化してしまい、平和で安全な戦後社会の正義や常識が浸透していったことが影響していることは否定できないと思う。「何故殺した側が生き残っているのか」の疑問は誰にも理解できる普遍的な問いかけでもあるからである。たとえ「・・・おばあさんは短刀で子供の首を切り、自分も首を切って死んだ。私も持っていた文房具のナイフで首を切ったがうまく切れず、血が流れた」(同書P175)。のような状況があったとしてもである。それに対立する側は「生き残っている」ことそのものにひけ目を感じ、言い訳の行為そのものが批判されるような自己意識の中では沈黙を守るしかなかっただろう。

 そうした矛盾した思いは兵士の側からも切々と伝わってくる。「(団長はじめ沢山の犠牲者に対して)『万障繰り合せて・・・』とか『生きて帰った者の義務として生ある限りの供養を・・・』とか、私は何人かの声を好意として聞いたが、私の耳にはともすると空ろに惻々として侘しく迫ってくる。私は弔いのために自分を賭けて祖国の土を踏んだのだろうかと暮夜窃(ひそ)かに思い見るとき、どうしても頷くことができない。・・・」(同書P305)。

 戦争の悲劇はこの麻山に限るものではないだろう。恐らくどんな小さな事件であっても、それぞれに深い悲しみややりきりない事実と思いを包含して解決することのないまま、当事者の沈黙や老いや死の中でやがて埋没してしまうことだろう。それは加害とか被害という事実を超えて、戦争そのものの悲劇なのかも知れない。

 満州についてはだいぶ前に一冊の本を読んだことがある(別稿「8月15日」参照)。だが麻山の事件を満州特有の出来事として理解することは間違いだろう。恐らく形も内容も違うだろうし、それは臭いや色が違うくらいまるで別の事件だったかも知れないけれど、パプァ・ニューギニアやガダルカナルや硫黄島など敗退する戦局での兵士の思い、沖縄や東京大空襲だけでなく、自らの身に迫ってきたあらゆる戦争の人々やその土地に降りかかる同じようなテーマであっただろう。それを「戦争の悲惨さ」みたいな一言で片付けてしまうことは、人としてどこか許されないものがあるように思えてならない。

 麻山におけるこうした悲劇と互いが対立せざるを得ない思いは、恐らく解決することなどないだろう。ともに理解しつつも、だからこそ一層のわだかまりが胸をふたぎ、それぞれの心の中に暗くて重たい石を沈めてしまう。そうした様々は、混迷のままに永劫とも言える期間続いていくことだろう。そして私たちがどんなに理解できたところで、当事者のやりきれない思いに解決の糸口など与えることすらできないだろう。ただこうした事実は、私たちが戦争ということどもに対してどう考えていけばいいかをあからさまに突きつけてくる。


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                                     2012.11.28     佐々木利夫


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