昭和46年4月22日(木) 釧路からの旅立ち

 釧路・・・。膚寒くともこれが初夏の知らせなのだろうか、霧の街釧路を文字通り再現させている。幣舞橋も対岸は殆んど見分けがつかない。いきなり、その濃い霧の中から鴎が飛び出してきては又、消えてゆく。赤い大漁旗をなびかせている漁船の姿もおぽろである。正午の気温+4度、寒い白い闇に閉じ込められ、ふと旅立ちの不安と孤独を感じる。夜の9時25分発、札幌行き「狩勝3号」B寝台5号車06の上段・・・寝つかれぬ旅の第一夜。

 4月23日(金) 青函連絡船

 快晴に近い気持ちの良い朝だ。7時30分、札幌もまだ樹の緑はそれ程目立たないが、外気の冷たさの中にも暖かさを感じる。苫小牧・・・、久しぶり樽前は青空の中にくっきりとその雄姿を見せている。草も木もない斜面には雪がまだ相当に残っている。隣の風不死岳もその鋭い岩膚を雪に預けている。駒が岳も僅かの残雪を抱いて、その広い裾野を惜しげもなく白日にさらしている。青函連絡船は松前丸、定員1200名、5376t・・・、今日の津軽海峡は波が荒い。出港直後から何となく横揺れが感じられる。波頭が強い風に飛ばされ霧になる。するとそこに虹ができる。始めの内は直線のような感じてみていたが、やがて目の前に直径20m程の半円を描いているのを知ったときは、新鮮な驚きに打たれた。八戸あたりで夕闇の中に白く浮き上がった桜に気をとられているうちに、やがて夜の闇にのまれてしまった。

 4月24日(土) 出港・東京晴海

 朝の上野、5度15分着が5時10分の列車アナウンスであわてて飛び起きる。16番線のホームに鳩が3羽、餌を拾い集めている。上野から有楽町へ、日劇の前からバスに乗る。7時半、晴海埠頭船客待合所、もう既に30〜40人の人々が集まっている。ガランとした倉庫のような殺風景な場所だ。何となく旅立ちのイメージにそぐわない。天気は東京ではこれを快晴と呼ぶのだろうか、雲はないようだが灰色の空が濁っている。霞ヶ関ビルと東京タワーはよく見える。8時30分受付開始、乗船申込書記入、身分証明書と入国許可書、検疫カード、それに交通公社の乗船券を添えて乗船整理券をもらう。検疫カードは乗船後返還してくれとのことである。11時過ぎから通関。出国証明印をもらい、外国製品の有無、日本円持参額を聴取されいよいよ乗船。1等船室は4名の個室。上下2段ベッド2組と窓際に4人用ボックスがあり、浴衣とスリッパがつき、更にロッカーもあってまずまずの設備である。12時発船。ドラが鳴り、汽笛が長く尾を引く。既に投げられている色とりどりのテープの上に更にあちこちからテープが飛び交う。サイナラー・・・、元気でね・・・、手紙ちょうだい、また来いよ・・・、オーイ、ココダココダ・・・、別れの言葉はどこでも同じだが、船の別離には又一層の感慨がある。泣いている老年の婦人が見送りのなかにいる。その延びたテープの先にも同じような女性がハンカチを手に持っている。涙に潤んだ目はもう何も見えないのだろう。相手を見てはいない。

 蛍の光、アンニーローリィ・・・、船は静かに岸壁を離れ、テープは徐々に風に流され、更に流され、2〜3本をつないだそれもやがてちぎれて空へ高く、又は波へただよう。汽笛、ハンカチを振る人、人、振りかえす人、人、別離のざわめきの中に人はだんだんと小さくなり、岸壁の端へ走り出す人の顔ももう見分けられない。東京タワーと霞ヶ関ビルを残して船は東京を離れる。その見えない一つまみの人々に向って、さっきの老婦人はまだ手を振っている。左手の白いハンカチを握りしめ何を考えているいるのだろうか。・・・ふと、治外法権の国への旅立ちを感ずる。・・・と、いきなり軍艦マーチが高らかに巣ひーカーから流れ始める。別れの曲から突然に行進曲へ・・・、いかにも唐突な感じで驚いた。やがて船は羽田空港のジェットの忙しい発着を右に見ながら、東京港を抜け観音崎へ。利休ネズミの城ヶ島を通り左に伊豆大島を見(16:30)やがて石廊崎(17:40)へ。しかし海岸は霧が多く、ぼんやりとしか見えない。6時夕食、まあまあの食事だが飯の盛り切りはちょっと寂しい。この頃から暮色が迫り、海岸はほとんど見えなくなる。海へ太陽が沈んでいくが、霧のような雲が多く夕焼けにはならない。船内の売店は日に3度開かれる。ドルでも日本円でも可。

 さっそくドルを使用してサントリーオールド一本購入。1900円のものが4ドル(1440円)で買える。ファンタ自動販売機10セント。ほとんど波はなく穏やかな旅だ。同室となった東京の伊藤重介氏、小山弘氏、横浜の中宮常雄氏の4人でウィスキーを飲みながら歓談。北海道は珍しいらしい。半分ほどウィスキー空けて10時ベッドへ。換気が悪くとても暑い。浴衣一枚なのだが汗びっしょり。それでも夜汽車の疲れが出てきたものか30分もしないうちに眠ってしまった。

 4月25日(日) 四国沖から九州そして屋久島

 朝4時半目が醒める。昨日より少し揺れが多いが、気になるほどでもない。朝日を見るべく甲板に出たが、まだ早く真っ暗。あと30分、また起きようと思いながらぐっする寝入ってしまい、目が覚めたら7時。ものすごい揺れだ。中宮氏は船酔いでゲーゲーやっている。俺も酔わないうちにと薬を飲む。どうやらここは紀伊水道だったらしく、間もなく波はおさまりはじめた。8時、室戸岬が見え始める。写真一枚写し、岬を眺めながら朝食、持っていったラジオから徳島・延岡の放送が入り旅情をかき立てる。今日もほとんど快晴に近い天気。デッキに寝そべっていると日光が顔や体に痛いほどだ。室戸岬を過ぎてから並みはほとんど感じられないほどになり、11時半ころから前方に足摺岬がかすかに煙りぐんぐん近づいている。10年前の九州・四国の旅をふと思い出す。ここから見える岬の灯台は本当に小さく、まるで白いマッチ棒のようだが、あそこへ来たことがあるという実感が感慨をひとしお深くしてくれる。しばらくデッキから流れる景色を追っている。足摺岬を過ぎるとやや波が荒くなってきた。豊後水道へ入ったからかも知れない。午後1時入浴、一等船客の待遇は何とも言えない。食事は特2、2等は弁当なのにこちらは素敵な専用食道で豪華だし、風呂はあるし、何と言っても4人とはいえど個室はいい。風呂上り、冷たいコーラにオールド割ってコークハイ。窓から見渡す限りの太平洋の海原を眺めながら、タバコはスリーキャッスル(25セント)、いつ寝てもよし、いつ目覚めてもよし、これに勝るものはない。

 デッキに出てもうっすらと雲はかかっているが、青空と追い風の爽やかさ、海の色、白波、見渡す限り島影も見えない。船旅は実に楽しい。上甲板でエンジンの音をききながらごろり横になる。まぶしい日光を片手でふさぎながら右手にコークハイ、一服つけるとそのままうとうとしてしまった。目を覚ますと4時に近く、左方に大型のタンカーがこれから荷物を積荷いくのか喫水線を海面より大きく出して一緒に並んで走っている。九州都井岬へ向っているのだろうか、見渡す海原には陸の影さえ見えない。夕暮れ迫る7時半、食事を追えてのんびりしていると都井岬らしい灯台のあかりが点滅している。残ったゴールドを4人で空けてしまい、少し腹が減ったので8時過ぎ食堂へラーメンを食べに行く。40セント、それにしてもひどいラーメンだ。インスタントよりももっとまずい。あまり進められない食事だ。しかし食い物はこれしかない。あきらめて全部食べる。そうこうする内に9時半、左手に種子島の明かりが見える。一ヶ所だけ点々と光る明かりの集団があり、赤いライトの点滅は港の赤灯台でもあろうか。船室の窓からは屋久島がみえるはずなんだが、闇にのまれて明かりはぜんぜん見えない。10時15分、ふとんにもぐりこむ。明日の夕方にはもう那覇だ。

                            沖縄旅日記むかしむかし(2)へ続きます。


                                     2012.5.25     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



沖縄旅日記むかしむかし(1)

 これは昭和46年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけたときの旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
 他人の紀行文は書いた人との共通体験がないこともあって、私の嫌いなジャンルです。あなたにもお勧めしません。どうかパスしてください。