4月30日 宮古島経由石垣島行き

 6時半の起床、さあ今日は宮古だ。久しぶりにテレビのスタジオ102を見る。昨日の天皇誕生日、本土は全面的に雨だったらしく、今日もあまり良くないとの予報である。しかしここ沖縄は快晴続き、今日も快晴だ。背中がまだひりひりする。9時少し前、荷物をほとんどまとめて洗面道具とカメラ、テレコ、ノートをカバンに詰め、それ以外のものは全部ホテルへ預け、半そでにカバン一つの姿で空港に向う。10時10分受け付け開始。10時50分飛行機YS-11、60人乗りへ。

 11時05分フライト。エンジンの音が急に高くなると、10秒足らずで浮き上がる。高度を増しながら空港をゆっくり右旋回しながら那覇上空を飛ぶ。素晴らしい眺めだ。那覇の街がどんどん小さくなっていくと、道路が網の目ように走り、緑の木々と対照的だ。やがて本島を外れる。海の色は黄緑の珊瑚礁から濃い藍色に変る。海は更に空と一体に溶け込み、窓の外はコバルト一色に彩られ、島影も見えない。マッチの軸のような船が止まっているようにコバルトの海の中に浮かんでいる。見渡す限り雲ひとつない。

 ゴーゴーとエンジンの音はちょっとうるさいが、振動はほとんど感じられない。スチュワーデスが救命具の使い方を知らせ、その後ジュースを配ってくる。宮古は快晴、気温27度とアナウンスがある。暑くなりそうだ。機内は半袖にちょうど良いほどに冷房がきいている。空の旅はなんとも言えず快適で、1時間足らずで宮古へ着く。

 機内から出るとムッとする熱気が押し寄せてくる。太陽は頭の上にあり、影は足もとに小さい。この飛行機はすぐ石垣へ向うが、那覇での話では満席。それでも一応と思ってカウンターへ行き空席を尋ねると一つだけ空いているという。願ってもない話、早速申し込み10分ほど待ってまた同じ飛行機へ。ラッキーな出足だ。突然機内で声をかけられる。見ると「とうきょう丸」で一緒だった小山氏だ。また、観光バスで一緒だった女の子も二人、そのほかにも見たような顔がいくつも並んでいる。小山氏は宮古で一泊したとかで、だいぶ色が黒くなっている。30分で石垣着。空から見る海岸線の美しさはなんともいえない。石垣空港はわりと貧弱である。空港前の道路にブーゲンビリアの赤い花が、この暑い日ざしに冴えている。旅館は予約していないので、小山氏の止まるホテルの車が来ていたので聞いたら空室ありというので同乗していく。セミダブルの部屋で一泊5ドル、きれいな部屋だ。

 観光ハイヤーで島内一周しようか、それとも泳ごうか・・・と小山氏と話してカウンターまで来たら、沖縄本島からの観光団(女性20名くらいに男性一人)の貸切マイクロバスが発車しようとしている。責任者の沖縄ツーリスト八重山営業所長に乗せてくれないかと頼んだところ快く承諾してくれる。何と具合よく島内一周ができるという。今日は本当についている。天気は良し、ガイドは運転手の一人二役だがとっても声がよく、デコボコ道を汗を流しながら何曲も民謡を唄ってくれる。2時出発、戻ったのが6時頃。ほとんど島内一周で、晴れの天気に恵まれて快適なことこの上ない。

 バスはまず150年ほど前に建てられた宮良殿内(ミヤラドンチ)へ向う。これは琉球に残る唯一の貴族の邸宅で、八重山地頭職、宮良親雲上当演(ミヤラシンウンジョウトウエン)によって造られた木造瓦葺平屋建て。庭は八重山の岩石を配した山水式手法で、琉球庭園の代表的なものらしい。ここで珍しい家財家具を見、7分目までの水ならこぼれないが、いっぱいにすると底の穴から水が全部漏れてしまう「猪子」の実演をしてくれる。サイフォンの原理なのだろうが同乗観光団の感心することしきりであった。そこから更に琉球唯一の木造彫刻であるとの桃林寺仁王像を見る。古ぼけ朽ちかかったような姿が、その仁王の姿をなお一層力強く訴えているようだ。

 バンナ岳テレビ送信所、石垣市の眺めは遠く珊瑚礁の海とマッチして素晴らしい。ここ石垣市は夜になると沖縄本島のラジオ放送は全然入らなくなるそうだ。その代わり台湾の放送がはっきり聞こえると聞き、見えないが目の前にあるだろう台湾の姿を思い浮かべる。台湾が近いせいか移住者が相当いるそうである。「陳」さんの苗字が多いとのこと。また、パインの収穫期には台湾から大勢の労務者が出稼ぎに来るそうである。ふと何かの本で、日本へ復帰するよりも台湾へ所属した方がいい・・・、なんてことを読んだのを思い出す。ここは日本本土よりも台湾の方が、気候的にも風俗的にも、そして距離的にも近いのが本音だろう。バンナ岳から台湾人「陳」某さんの経営するスッポン養殖場へ。濁った池の中に小さなスッポンが時おり頭を浮かべる。噛み付かれたら雷が鳴っても離れないと聞いたことがあるので、手を出さないで眺めるだけにする。回りは見渡す限りパイン畑、花は終わって小さい実が葉に囲まれて見える。また、家の周りはバナナが青く実っており、パパイヤも丸く青い実をつけている。

 川平公園で休憩、始めに黒真珠養殖場へ。黒真珠は真珠の中でも最も高価なものだそうで、現在は600ドルと200ドルの2粒しか残っていないが、1粒3000ドルのものがあったそうだ。川平公園、何と見事な美しさだろうか。緑と藍色の海のコントラスト、珊瑚の砕けた粟色の砂浜、木の緑、空の青・・・、ここでもまた俺の言葉の貧弱さを改めて痛感しなければならなかった。やがて車は米原熱帯原生林へ。生まれて始めてみるヤシの林、暗いジャングルのような間道を通って見るヤシの林は壮観の一言に尽きる。真っ直ぐに天に向って延びる滑らかな太い樹、その頂に茂る葉は天を覆い、さすがの日差しもここまでは通らないようだ。

 ここから帰路。車はオグデン道路、吹通川、太平洋と東シナ海を僅か数10メートルで遮っている伊原間湾、マクラム道路、宮良、飛行場を抜けて石垣に入る。途中の道にはハイビスカスが真っ赤に咲き乱れ、ピンクの夾竹桃も今が満開のようだ。車の中も琉球ツーリストの八重山所長の方言の紹介(本島とここではだいぶ言葉が違うようだ)。「おしっこしたい」というのを八重山では「スバルサンパー」と言うそうで、車の名前と同じなため車内ドッと湧く。運転手の台湾民謡、本島観光団女性の歌、それに小生もカスレ声を張上げて知床旅情など、車の中は和気あいあいである。何と楽しく素晴らしい石垣なのだろう。干潮時らしく島の周りはぐるりと珊瑚礁が取り囲んでいる。自然の要塞と言った感じで、戦時中ここには飛行場があり、ゼロ戦やその他の特攻隊はここから発進したと八重山所長は話してくれる。また、アメリカ軍は上陸すべくこの珊瑚礁を爆破したそうだが、結局は上陸しなかったとのことである。

 ともかくあまりの景色の素晴らしさに、今日一日で写真を40枚以上撮ってしまった。入浴したらもう8時過ぎ、昼食をとらなかったことを思い出すと急に腹が減ったことに気づく。小山氏と一緒に外へ出る。近くの食堂でビールにオムライス(50セントなのだがものすごくヴォリュームがあってやっとの思いで平らげる)。バーへ行ったが閑散としていて女3人で広いが対して面白くもない。ボーリングでもしようかとホテルの近くのボーリング場へ出かけたが、少し時間がかかるという。一応予約してまた違うバーへ。今度の店は少し美人がいる。小一時間過ごす。ボーリングをするが二人とも90台、あまり上手くない。外へ出たときはもう12時を過ぎている。生暖かい風が吹いている。

 ふと見上げる空に星がとてもきれいだ。空気が澄んでいて星が近いという感じがする。見慣れた北極星をさがす。見つからない。北斗七星も見えない。こんな筈はないと思ってもう一度確かめると、あった、あった、相当に地平線に近いところに北極星だ。釧路から見るのとは違って相当に低い。いつかの旅行で富士山が自分の思っていたのよりもずっと高く雲の上から頭を出していたときの、あのニヤリとした感じを思い出す。生暖かい風に吹かれながら、つくづく南の果てに来たことを感ずる。

                                    沖縄旅日記むかしむかし(7)へ続きます。



                                     2012.7.2     佐々木利夫


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沖縄旅日記むかしむかし(6)

 これは1971(昭和46)年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけた旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
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