5月1日(土) 石垣島・竹富島

 6時半起床、今日も晴れ・・・。水で顔を一撫ですると外へ飛び出す。海岸へ、目の前に海の僅かの隔たりを置いて平たい竹富島、その島の後方に遥かうっすらと西表島が見える。明け染めたばかりの珊瑚礁の海の緑、粟色の砂浜、風もない穏やかな鏡のような水面が時おりの小さな漁船に細かくうねる。ひたひたと小さく打ち寄せる波を見ながら、南国の気分をゆっくりと味わう。ホテルで朝食。テレビを見て驚いた。NHKの「こんにちは奥様」が映っている。ちょっと遅い朝食だったので、番組はそれほど驚くこともないが、スーパーの時刻が8時47分を指している。俺の時計はしかし8時28分であり、ホテルの壁の時計も同じだから時計は狂っていないようだ。隣の席の客も時計をみながら変な顔をしている。一瞬何となく不安に襲われる。常識が狂ってしまったような、相手が「時間」という永劫不変と思って習慣付けられていたものだけに一瞬の混乱が起こる。日の出も日没も北海道と比べて20分以上も遅いから、時差でもあるのかなどと混乱した頭で考えたが、日付変更線を通ったわけでもなし、すぐこの考えの誤りに気づく。
 恐る恐るメイドにその訳を尋ねて、何ともその答えの簡単明瞭なのに拍子抜けする。石垣はテレビ電波が弱いのでVTRで番組が送られてきて、ここで再生するとのことである。何のことはない、昨日のビデオテープを流しているのである。ホッとはしたものの旅行ボケが始まって、考え方がどこかでショートしているらしい。

 10時10分竹富島へ。同じく昨日の観光団と一緒に向う。小さなハシケに30人ばかりが、コンクリートブロックやセメントなどの荷物と一緒に運ばれる。石垣と竹富島間はびっしり珊瑚礁なので、満潮時にのみ深い部分を縫って航行するので、10時発、午後2時には戻ってこなければならないそうだ。朝もやもスッキリと晴れて、南国の日差しが藍色と黄緑の海に映える。船はその藍色の部分を縫いながら竹富へと向う。所要30分。海の色の素晴らしさに船内からたびたび歓声が涌きあがる。

 竹富島で観光団と一緒に島内唯一の交通機関である小型トラックに長いすをつけた島内タクシー(?)で一巡りする。水牛に引かせた車にのんびりと乗った農家の人にタクシーのほこりを浴びせながら、石垣と濃い緑の木々の間を抜け海岸へ出る。ここが星砂の浜である。乾いた砂浜に両手を押し付けると、手のひらに細かな砂がたくさんつく。その砂粒のうち白いものは貝殻の砕けたものだが、粟粒の色をしたものはよく見るとすべて小さな星の形をしている。本当に砂粒のように小さいが、紛れもなく星だ。この海岸一帯がいたるところ、この星型のサンゴ虫の死骸で埋め尽くされているのだ。目の前の砂も、この足に踏んでいる砂も。快晴の空からは日光がほぼ直角に射しこんでくる。もうこの辺は回帰線に近いのだろう。

 西塘お獄からなごみの塔(赤山丘)へ向う。途中石垣と赤瓦の屋根が続く。抜けるような空の青と木々の緑、ハイビスカスと夾竹桃、これらの匂いが熱気の中にむんむんする。島内いたるところバナナやパパイヤが青い実をつけている。特になごみの塔からの島の景色はなんとも言えずすばらしい。
 徒歩で喜宝院(蒐集館)へ。ここで昼食、と言っても食堂も売店もなく、観光団のおばさん連中に冷やかされながらごちそうになる。ちくわや肉類が多く、油っこいのでちょっと閉口気味である。この蒐集館は喜宝院の住職、上勢頭亨(カミセトトオル)さんの個人の持ち物で、珍しいものばかりだ。琉球博物館にもないものが多いそうだ。税に連なる話が面白くもまた面映い。成人して人頭税の課されるときの記念の食器、納税できないときの拷問の鞭。この住職、いやにひょぅきんな人で、楽器・・・と言っても太古の中に十文字に針金を張って銅銭を何枚か入れた、太鼓とタンバリンの合いの子のようなもの、3枚の板を片方で留めたカスタネットのようなもの、竹の棒の先を何枚かに割いたもので、床や手や肩を叩いて音を出すもの(ジャワあたりの映画で見たような気がする)、板切れを竹の鋸のようなもので弾いて音を出すものなど、唄いながら実演してくれる。この島はまた、安里屋ユンタ発祥の地でもある。

 1時ころ海岸へ。船の出発は2時だからチャンスとばかり裸になって海へ飛び込む。珊瑚礁の続く緑の海はとても暖かく、何の抵抗もなく水に入っていける。竹富は島のいたるところが海水浴場だ。エメラルドグリーンの海の色はこのままでも飲めそうな気がする。30分ほど泳いで30分甲羅干し、目の前の石垣島が素晴らしい。「船がでるぞー」の声にあわてて水着のままシャツだけを着込み靴とカメラ小脇に抱えて桟橋へ。一泊していきたい心境だが、宮古への飛行機の空席はなく、明日は宮古行きの船が出ると聞いては帰らざるを得ない。未練を残しつつ船に乗る。近づく石垣島と遠くの竹富島、二つ島を分ける海の色、名残は尽きない。

 ホテルに戻り昨日の分のチェックアウトが済んでいるので、改めて宿泊を申し込み目の前の石垣港有村産業ターミナルへ行って乗船券の手配をする。朝8時出発、所要7時間とのことである。昨日の石垣島内一周と今日の竹富観光の代金をツーリスト八重山所長に尋ねたら、1ドルでいいという。あれだけゆっくり回ったのに1ドルとはまったくただみたいな値段だ。所長に丁重に礼を述べ支払う。観光団のみんなと話し合って一人50セントずつ所長と運転手にチップを出すことにした。

 シャワーを浴びてさっぱりしたので、ひるぎの林を見に出かける。バスターミナルから白帆線で宮良下車、約10分、9セント。宮良川の河口は潮の干満で海水と淡水が混じりあう場所で、ひるぎ(別名タコの木)の群生だ。タコの足のような気根が何本も地上に延び、更に地面へ潜っている。潮が引いて間もないのか、革靴半分ほど地面にぬかりながら、ひるぎ林の中に入る。木登り魚がいるとの話もあるが、見つけられなかった。そこから近くのヤラブの並木道へ。ヤラブは主にタンスなどの表材として使用され、成長が早く木質もいいそうだ。5時を過ぎているというのに日はまだ暑い。近くのバス停から街へ戻る。ひどいおんぼろバスだ。窓ガラスも何もなく、座席のシートも破れ放題と言った感じだ。

 街へ出、途中でホワイトホースの小瓶を買って、とある中華料理店へ。ビール一本と中華料理を食べて夕食にする。土産店でスッポンの剥製と星砂、ペンダント、わらじなどを買ってホテルへ届けるよう頼み、喫茶店やバー2〜3件回ってホテルへ戻る。小山氏は竹富から戻るとすぐ、5時頃の飛行機で那覇へ戻った。3日頃東京へ帰るそうだ。俺はまだ日程の半分ほど残っている。那覇へ着いた日は雨だったが、上陸と同時に上がり、それ以来今まで1滴の雨にも遭わず傘は使わずじまい。しかもほとんど快晴の日ばかりだ。これで宮古が晴れてくれたら後は毎日降ってもよいような心境だ。

 この晴天続きで竹富は水飢饉の話がでている。現に一箇所の共同水道のための井戸は、底の方に僅か残っている程度で、メダカみたいのが泳いでいた。宮古も水不足らしい。ただ、石垣は山があって水は割りと豊富との話である。石垣、竹富・・・、去りがたい島である。

                                沖縄旅日記むかしむかし(8)へ続きます。

                                     2012.7.12     佐々木利夫


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沖縄旅日記むかしむかし(7)

 これは1971(昭和46)年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけた旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
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