5月4日(火) 南部戦跡めぐり

 昨夜は布団に入ったとたん寝てしまったらしく、起きたのが7時半。あまりのんびりはしていられない。昨夜のパーティの名残りで食堂は乱雑そのままだ。9時、ホテルの車で空港へ。車から外の景色をゆっくりと眺める。宮古の今日は薄曇りだが、何となく離れるには惜しい気持ちがする。手続きは昨日のうちにホテルで代行しておいてくれたので、そのまま機内へ。9時半離陸、雲間に途切れがちになる宮古上空をゆっくりと飛行機は高度を上げていく。10分ほどで低い雲を突き抜け上空へ出る。薄い雲の上は快晴に近く、窓からの日差しが焼けた腕に痛い。下は雲海、反射光が目に痛い。定刻の10時20分那覇空港着。運賃11ドル98セントは本土から比べると相当に安い。船なら半日以上もかかるのだから、飛行機の便利さはやはり否定できない。

 空港から車で市街へ。前に泊まったレインボーには荷物を預けてあり、また泊まるかもしれないと伝えてはあるが、部屋が少し広すぎるので新しいホテルを探すことにした。「ホテル香和」へ行ったら10ドル50セントの部屋しかないとのこと。少し高すぎる。諦めてホテル那覇へ行き、7ドルで決める。すぐレインボーへ行って荷物をとり、このホテルへ預け、観光バス乗り場へ向う。13時発の「南部戦跡めぐり」を予約して昼食、やがてバスの客となる。

 新米ガイドらしくあまり上手くないが、それにしても南部一帯、摩不仁にかけての戦史の語りかけは熱っぽい。戦後26年、当時の戦場は今や平和な砂糖キビ畑に変り、慰霊塔も立派なものが林立していて、面影はない。緑とその向こうに広がる海は平和そのままである。
 「国破れて山河あり」、しかしこの沖縄は戦火のため山も川も、自然それ自体が破壊されたという。山や川の形が変ったという。しかし今見る限り当事の面影はない。しかし確かにここで戦争があったのだ。戦争というよりは日本本土を守る最後の障壁としての殺戮がここで行なわれたのである。終戦の8月15日を迎えるほんの数ヶ月前に、日本本土でも決して見ることのなかったほどの、また単にアメリカ軍の攻撃のみならず、日本軍自体からも犠牲を強いられた沖縄人。異国人的な意識を持たれ、日本人にその罪の原点のある残虐さが現にここにあったのだ。

 確かに今の「○○の塔」はコンクリート造りの立派なものだ。数百もあるそれらは、決して我々の戦争に対する罪の代償とはなりえないだろう。美しい塔があり、写真になる風景があればあるほど、何かそらぞらしい虚しさを感ずる。人の命を金で買うような、戦争の邪魔だからと自決を命じた同じ日本人が、罪の意識をこれですりかえてしまっているような、そんな気がする。

 定期観光バスが3社で日に2回ずつ、それとは別の観光団も加わって、ひめゆりの塔、健児の塔は人の波である。観光バスに乗ってきたカメラを持った観光客の一人として、今ここで見ているひめゆりの塔は、一体何なのだろうかとふと感ずる。バスガイドの声にせかされてセルフタイマーの音ももどかしげに次の場所へと移るこの俺は、一体何を写しているのだろうか。26年前、ここで大勢の人が死に、殺されたことを俺は感じているのだろうか。流れる汗をぬぐいながら、○○国立公園とか××岬とかの記念碑と同じように見ている俺自身に気づき、寂しさを感ずる。

 今の日本の繁栄が沖縄があったためだとは思わない。しかし、今の日本のGNP世界2位の原点には、沖縄の赤い血が流れていることを我々は知らねばならない。草に埋もれた洞窟、残った塹壕・・・、原罪的な意識を感ずる。守礼の門を通りバスは那覇市へ入り三越前で下車。途中で写したバス団体客の写真を受け取る。海軍旧指令壕の前の写真。ホテルへ戻り着替えて街へ。三越屋上のビァガーデンでジョッキを傾け、桜坂の入り口にある小さなスナックでスパゲティを食べたら10時頃。眠くなったのでホテルへ戻る。ボーイに氷を頼んでホワイトホースの水割りを飲みながらテレビを見る。久しぶりのテレビである。

                             沖縄旅日記むかしむかし(11)へ続きます。


                                     2012.8.10     佐々木利夫


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沖縄旅日記むかしむかし(10)

 これは1971(昭和46)年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけた旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
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