5月5日(水) コザを歩く

 濡れるほどではないが、パラパラ降っている。9時過ぎ、ホテルを出て街へ出る。デパート、平和通りをぶらぶらする。今日はこどもの日で人出が多い。ぐずつき気味の天気だが、大した降りにはなりそうもないので、コザまで行ってみようと思い、12時ホテルへ一応戻る。ターミナルからコザ行きのバスへ。

 コザも小雨が時折ぱらついているが、傘の要るようなものではない。もちろん荷物になるので持ってはこなかったのだが。那覇からの道が混んで、1時間半もかかった。昼食して、さてストレンジャーのすることはあまりない。喫茶店の昼ではまだどこも開いていない。コザ十字路、この十字路をはさんで白人街と黒人街が分かれている。なるほど黒人街には現地人と黒人だけであり、白人街に黒人の姿は見えない。・・・と一人の黒人兵が僕にぶつかるように、脇をものすごい早さで駆け抜けていく。と思う間もなく僕の目の前にMPの車がすっと近づいてくる。車には白人と黒人が一人ずつ乗っており、黒人が運転している。MPとしてフリーに活躍するためにペアで歩いているのだろう。近くのタクシーに乗った白人とMPが何かしきりに話をしている。一体何が起こったのかさっぱり分からない。物珍しげに見ているのは近くの商店の2〜3人で、あとはほとんど無関心である。

 区別された人種の地域、ここは戦場なのだという気がする。交流の許されない十字路をはさんでの地区、世界最強の、世界最大の、最も繁栄の極みにある米国が、こんなところに恥部をさらけ出している。黒人街へ向う。日本人はどちらへ行っても良いことになっているそうだが、何となく不安であり、ストレンジャーの身の置き所はない。近くの映画館へ入り、6時ころ外へ出る。飲むには少し早いので、バスの窓から見えた劇場へ行くことにする。場末のうらぶれた芝居小屋と言った感じで、8時開演の札がかっており琉球民謡がスピーカーから流れている。開演まで少しの時間があるので、夕食をすべく近くの「ステーキハウス大関」へ入る。入ってみて驚いた。店内は相当広く、座敷もあるがほぼ満員の客は全部外人だ。一瞬ひるむが、一人旅とは言え北海道男児である。近く椅子へぐっと腰を落ち着ける。

 ウェイトレスが寄ってくる。何か注文を聞いているらしいが方言なのでとんと分からない。「お飲み物は?」と効かれたらしかったので、「酒 !」と頼みあとは全然分からないので「適当に」と伝える。スープとサラダが出てくる。どうも食い方もよく分からないが、ままよとばかり酒の来るまで待つことにする。外人はスープにすぐ手をつけている風なので、僕も恐る恐る飲み始める。やがて日本酒がくる。サラダを肴にチビチビやり始めたころ、目の前に鉄板と大きな肉がごろりと乗せられる。「肉の硬さは」とボーイが聞く。無難なところで「普通に」と、何が普通なんだかさっぱり分からないが、ものすごく厚いステーキで、見ているだけで腹の膨れる感じだ。

 酒をもう一本追加。久々の日本酒は美味い。値段も見当つかないが、まさかに20ドルもしないだろうし、せいぜい10ドル程度と覚悟を決め、密かにバンドを緩め食べ始める。ちょうど一口くらいにボーイが目の前で切ってくれてあり、箸で食べられるようになっているので少し助かる。向かいの席の外人が割り箸を割らずに一本の棒のようにして食べていて、ホステスから使い方を教えられている。しかしここでふと感ずる。このステーキハウスは2〜3人の現地人らしい人を除いて全部米軍人とその家族である。もちろんボーイやホステスは地元の人間であるが・・・。

 そうした中に一人座って、周りの英語の洪水の中で言葉は分からなく、またボーイやホステスともほとんど言葉の通じないこの俺は、一体何者なんだろうか。このあいまいなどっちつかずの存在、日本なのに日本語の充分に通用しなく、もちろんボーイやホステスにも英語の分かるのは極く小数らしいが、英語の会話の中でのふらふらした疎外感、ツアーとしてだけの、そしてストレンジャーとしてだけの感情ではない、もっと深い哀しみみたいなものを感じた。

 劇場に入る。常設館らしいがとてもひどい田舎小屋である。15〜6人しか入っていないが、8時20分頃の前踊りが終わる頃には小屋の半分50人程の入りになっていた。舞台と客席が一体となっている。客席から野次が飛ぶ。応える舞台。もちろん何の意味か全然分からない。ドッと笑う客席・・・、それも俺には何のおかしさもない。何となくストーリーだけは身振り手振りで想像もつくが、言葉自体はまるで分からない。まるで一番前の席で、一人でぽつんと舞台を笑いもせず見ている黒人と同じだ。・・・彼は一体何を考えているのだろうか。
 9時半頃出て、コザ十字路あたりをウロウロするが、どうも黒人街には入る気にならない。車で「中?通り」(ちょっと忘れた)まで来る。十字路からはちょっと離れた那覇寄りの新興地だとのことである。雨が降り始めてきて濡れるようだ。あわてて近くのサロンへ飛び込む。客は3人ほどで女も手持ち無沙汰の感じだ。それにしても値段が安い。ビール2本、女にスコッチのオンザ2杯、それに私がナポレオンを飲み、つまみがついて僅かの6ドル60セント(4000円少々)である。このつまみが一風変っていて、漬物なんだが中に魚の缶詰が入っている。とても食えた代物ではないが、女たちは美味いという。それにここはバーの中にサキイカ、ポテトチップ、ガムその他つまみ類を老婆が籠に入れて売り歩いている。飲食店にはそれぞれの縄張りみたいのがあるそうだが、別に営業妨害にはならないらしく、俺もポテトチップを15セント買う。25セント玉出したらつり銭代わりにガムを押し売りされる。

 せっかくコザへきたのだから、Aサインバーへ行きたいと店の女に尋ねると、BC通りのチャンピオンがいいと教えてくれる。さすがにAサインバー街である。BC通りのすべての店がAサインだそうで、眩いばかりのネオンの海である。それにも増して溢れている酔客は全部米人ばかりである。意味の分からぬ英語の渦・・・、入ったチャンピオンがまた耳をつんざくばかりのバンドの音が腹わたへ直接響いてくる。客も外人ばかり、黒人も2〜3人見える。注文する声も届かないほどだが、1ドル先払いしてビール1本頼む。ボックスに座った米軍人は、傍らに店の女の子を置いて肩で、腕で、足で、音楽に合わせて体を動かしている。12時、ピタリと音楽が止む。急に静けさが戻ってきたが、Aサインバーはこれで終了だ。

 外へ出ると店を出た外人の渦である。Aサインは終わってもサロン街は朝の5時過ぎまで営業しているとは先ほどの女の話だが、この意味は酒を飲ませるためではないらしい。近くのスナックに入ってスパゲティとジョニ黒のロックを飲む。外人があぶれて時折入ってくるが、ママさんに体よく断られている。「外人は嫌ですね。何となくこわい感じです」と話しかけてくる。客は俺のほかにはいない。「お客さんが一人もいないと本当に心細いんですよ」。なるほどあの大きな体でペラペラ話され、おまけに酔っているとなると、僕も何となく不安になる。

 11時過ぎ一度止んだ雨だったが、スナックを出た1時半頃はものすごいどしゃ降りだ。スコールと呼んでもいいだろう。あわてて近くのタクシーに飛び込む。話好きの運ちゃんで、ミス沖縄2位の女性が今日交通事故で死んだとか、首里博物館の鐘は水の流れる音がするとか、沖縄の芝居は週一回でなく毎日テレビでやるべきだとか、向こうから誘ってくる女はほとんど病気持っているから買うのだけは止したほうがいいとか、色々面白い話をしてくれる。おかげで車の30分も全然退屈しなかった。篠つく雨はワイパーでは拭いきれないほどだ。夜中の1時過ぎ、ほとんど車の通らない那覇への道をヘッドライトで雨を掻き分け、闇の中を車は進む。ホテルへ着いたのは1時45分、ちょっと遅すぎたようだ。

 (参考)沖縄ではタバコは民営のため、どこでも売っている。しかし普通の商品であるから、飲食店で買うと高くなる。飲食店内にあるタバコはほとんど外国産のもので、ケント、市価40セントが50セントになるから、タバコは街中で買ったほうがいい。

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                                     2012.8.10     佐々木利夫


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沖縄旅日記むかしむかし(11)

 これは1971(昭和46)年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけた旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
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