5月8日(土) 奄美大島・名瀬入港

 目を醒ましたら窓の外は真っ暗だが、どうやら船は泊まっているらしい。エンジンの音が静かだし、船の揺れもほとんど感じられない。時計を見ると4時半、さては名瀬へ着いたか・・・と、あわてて飛び起きて船員に聞くと、7時頃検疫と税関が来るので現在沖待ちの状態であり、下船はそれからになると言う。ほっとしてベッドにもぐりこんだが目が冴えて眠れそうにない。5時近くになって、空が白み始めてくる。6時40分頃検疫官が各部屋を回る。と言っても人数を調べている程度である。検疫が終わったらしく、7時頃税関が乗り込んできて、パンサー(事務長)の部屋で入国査証、次いで荷物の検査。名瀬では地元の人らしい年配の男性と、そのためかどうか知らないが昨日ボーイから渡された「持参品申告書」に記入したものをチェックしながら色々と聞かれる。もちろん免税点オーバーしていないからパス。下船。5つもの荷物を抱えて待合室へ。売店で市内地図を買い、近そうなホテルへ電話したが2件とも満員。3件目の南海荘OK。タクシーで向う。と、そこの主人が先ほど一緒の船から降りた人で、通関のとき色々と話し合った人だ。「それなら一緒に来ればよかったね」とは言っても、知らない人なんだから仕方がない。

 客間で朝食を出してもらう。沖縄へ指輪を買いに行ったらしく、船員に預け通関抜きで甲丸3個、男物純金の角指輪1個、それにダイヤとオパールを綿に包んで見せてくれる。来年の本土復帰とともに高くなるのを承知での買い物らしい。なにしろ鹿児島へ行くのと同じくらいの所要時間だし、身分証明の手間が少し面倒なだけで、旅費も往復で約5千円程度である。2〜3泊しても、帰りにこれら貴金属や洋酒、タバコを持ってくれば充分採算がとれる。これからも何回か行く、と言っていたが、これではなんのための税関か分からなくなる。のんびり茶を飲んで、9時半頃街へ出、おがみ山公園に登る。

 市役所の横からダラダラ坂はちょっときついが、緑が目にしみるようであり、登るほどに視界が広がり小さな街の姿とその前に広がる緑の入り江、港の眺望がハイビスカスや夾竹桃の花の合間から眺められるのは何とも言えない。今日も快晴。暑いが吹く風は少し涼しい。午前中だからなのだろうか。山の頂に復帰記念塔がある。ふと、ここも戦後日本に返還された沖縄と同じ状態の島だったことに改めて気づく。横綱「朝汐」の碑もあり、そう言えば彼は奄美の出身だったことを思い出す。

 降りて鹿児島大島ツムギ指導所へ回る。たいして見るべきものは少ない。12時頃旅館へ戻る。1時頃バスで朝江海水浴場へ。日差しは強いのに、ここ奄美でも海水浴は早いのだろうか、5〜6人の人影しか見えない。2軒ある売店も1軒は閉じたままであり、残る1軒も更衣室がまだ物置代わりになっているありさまである。しかし、この海岸も宮古とは比すべくもないが、穏やかで気持ちの良い遠浅だ。ほとんど雲ひとつない抜けるような青空だが、影が少し長くなったような気がする。海の水は暖かく、サンゴが散らばっているが、それほど歩きづらくはない。サンオイルを塗って日光浴の最後の仕上げにかかる。サングラスを通して日光がまぶしい。一度泳いでまた日光浴。最後に海水で油を落として、3時過ぎ引き上げる。

 名瀬行きのバスは5分ほど前に出たらしく、あと1時間は来ない。街まで歩いて45分くらいとのことなので、ぶらぶら歩き始めたら、ちょうどタクシーが来たので乗り、ハブセンターへ向う。4時からのハブとマングースの戦いを見るためだ。白衣の研究員みたいのが、慣れた調子で説明を始める。話し慣れた様子が鼻についてあまり面白くない。20分以上もの話が終わり、金網の中の仕切りが引き上げられ、ハブとマングースの間を遮るものがなくなったと思う間もなく、マングースがハブの首に噛み付きあっけなく勝負は終わった。ハブの抵抗もあらぱこそ、マングースはハブの首から頭から手当たり次第に噛みついている。2〜3分でこの戦いは終わった。それほどの見世物ではない。

 歩いて旅館へ。茶の間で主人と話しこんでいたら風呂が沸き、一番風呂を浴びる。もう何回も焼いたせいかあまり痛みはない。茶の間で食事、8時頃街へ出る。と言っても小さな街なので、ネオン見ながら歩いてもすぐ途切れてしまう。パチンコ200円やってハイライト7個。スタンドバーでビールを飲み、少し寒くなったので途中の酒屋でウィスキー小瓶一本と、奄美観光記念のルナ1個買って旅館へ戻る。9時半。
 主人と沖縄の話しに色々と花が咲く。もう70に近い年寄りだからだろうが、那覇ではほとんど外出しなかったとのことで、僕のスケジュール聞いてそのタフぶりに驚いている。

 沖縄でのホテル住まいから、ここはフスマ仕切りの簡易旅館へとガクンと落ちたが、そのなりに家族的な雰囲気はまた旅情を一層つのらせてくれる。11時就寝、旅の終わりが近づいてくる。


 5月9日(日) 名瀬出港、鹿児島へ向う

 朝、カーテン越しの強烈な日差しで目が覚める。7時半だ。9時のバスで「あやまる岬」へ行くので、あわてて飛び起きる。朝食後、向かいの照国郵船の事務所で今夜の鹿児島行き「ハイビスカス丸」18時30分出港を確認してバス停に向う。昨日、一等船室申し込んだら空席なく特2等にした。1等のキャンセルないかもう一度確認したが、ゴールデンウィーク最後の日曜のためか、2等でも危ないとの満員らしい。それにこのハイビスカス丸は新造船で人気もあるらしい。

 地図を見てバスの右側は景色良しとの判断をつけたのだが、見誤ったらしくさっぱり海は見えない。暑さとほとんど舗装されていないガタガタ道は、一眠りにちょうどいい。何度となくウツラウツラして10時50分、あやまる岬、国民宿舎あやまる荘にバスは停まる。バスから降りるとさんさんと降り注ぐ日光の下に蘇鉄の群生、グラジォラスの赤い花、青い空とその青さをそのままに写した海、引き潮に洗われる遠浅の珊瑚礁、純白に砕ける波、数片のぽっかりと浮かんだ雲、かすかに煙る喜界島、強烈な南のイメージに眠く重たげだった頭を、一発ガンと殴られる思いだ。岬の美しさというものは、本来どこでも同じなのかも知れない。山と海と空、この3つの組み合わせは日本の景色ではそれほど珍しいものではあるまい。しかしそれにしても、この見事さはどうだ。「綾に織りなした鞠のごとくにも美しい岬」、あやまる岬の今日の姿は、沖を通る船に大声で呼びかけたいほど美しい。

 海岸へ降りてみる。昨夜の月が満月に近かったせいか、沖のほうまで潮が引いており、珊瑚の岩伝いに沖へと向う。ところどころに残っている水溜りには、小さな魚が飛ぶように泳ぎ回り、小さな蟹が這い回っている。風もほとんど感じられない遠浅の岩は、本当に穏やかである。蘇鉄、アダンの自生林を回ったらもう12時半、バス停に近い芝生の上でゴロリ横になる。爽やかな風に頬をなぶらせて、この旅行の最後の昼寝だな・・・、としみじと太陽の暑さを感じていると、断片的に旅の思い出が次々と湧き上がってくる。

 1時25分、名瀬行きのバスに乗る。もっと残っていたい心境だが、これに乗らないと今夜の船にも間に合わない。2時間近い所要時間だが、半分ほど居眠りで過ごしてしまった。3時過ぎに近くのスナックで遅い昼食。4時、旅館に荷物を取りに戻る。荷物5個はちょっとオーバーなので、街で買ったナップザックに詰め替える。これを肩にかければ両手に2個づつで済む。それにしても釧路まで・・・、気の遠くなる話である。船までの荷物は同じ旅館に泊まった同じ船で鹿児島へ行く学校の先生、25〜26歳くらいだろうか、3名が持ってくれたので、両手に1個ずつで助かった。

 船は新造の「はいびすかす」。船腹に大きく赤いはいびすかすの花が描かれている。とてもきれいな船で、1等はとれなかったものの、特2等で充分である。6時に夕食をとる。混むと思って早めに食べたが、さっきの昼食が残っているのか満腹である。
 6時半、船はゆっくりと岸壁を離れる。那覇出港と違ってあまり暗いイメージはない。修学旅行が多く、新婚らしいカップルも数組見かけられるようだ、夕方の風はさすがに涼しさを通り越すようだ。夕焼けの空がとても美しい。日が暮れるまでデッキに残り、暗くなると一緒に大部屋の寝室に戻る。旅行中にすっかり馴れてしまったコークハイ、ポケットビンに紙コップで過ごしているうちに眠くなってくる。名瀬〜鹿児島380キロメートル、明朝5時半にはもう鹿児島だ・・・。

                                 沖縄旅日記むかしむかし(15)へ続きます。


                                     2012.8.30     佐々木利夫


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沖縄旅日記むかしむかし(14)

 これは1971(昭和46)年4月から5月、まだアメリカの統治下にあり日本復帰を来年にひかえた沖縄へ、日本の北の果てとも言える北海道釧路からたった一人で出かけた旅日記である(別稿「私と沖縄復帰40年」参照)。
 他人の紀行文は書いた人との共通体験がないこともあって、私の嫌いなジャンルです。あなたにもお勧めしません。どうかパスしてください。

ハブとマングース