東日本大震災が起きたのは2011.3.11だったから、この9月で1年半になる。この対応日である9.11は、2011年にアメリカで起きた未曾有の同時多発テロの日と重なることもあって、一年半という中途半端な期間でありながら各地で追悼の姿が報道された。月命日という言葉もあるくらいだから、別に毎月追悼しようがそれが毎日や毎年だろうが、はたまた3年とか7年とかの特定の年忌を基準にしようが、とやかく言うことではない。

 でも、この東日本大震災は2万人を超える死者・行方不明者を出したこと、そして福島第一原発がこの震災に連動して破損爆発したことなどから、特別な災害としての印象を私たちに与えている。そしてこの大震災は、原発事故という新たな形での後遺症を残している。地震による被害や復興は、関東大震災や阪神淡路大地震など私たちは身近なものとして経験しているし、津波に関しても道東のチリ地震津や奥尻島の地震などなど身近な経験はもとより、伝承や他国の事例などを通じて少なくとも知識としては記憶していた。たとえそうした記憶が時の経過により風化していったにしてもである。

 その被害が、あたかも手が付けられないと思えるまでに絶望的であったとしても、復興への歩みは間を置くことなく続けられてきたはずである。ところが東日本大震災については、これまでの災害とはどこか違っているように思えてならない。復興への意欲が足りないというのではない。被災者の気力や復興を支えようとしている国民の意志は充分感じられるのに、それがどこか歯車として一つにまとまっていかないように思えてならないのである。どこかで基本的な筋道が、きちんと人々の心に届いていないように思うのである。

 2012.9.11の一年半を前に、朝日新聞は東日本大震災に関する読者の声を特集した記事を掲載した(9.9)。いくつかをここに再掲しよう。

 がれき処理 人間らしい姿とは(福岡県、主婦、51歳)
 被災地のがれき受け入れに、・・・各自治体(の)判断が分かれている。・・・大震災をどこかひとごとのように見ている。家族に何事もなければそれでいいではないか、そう思う冷たい自分がいる・・・。でもそれではいけない。がれきの受け入れは安全面を確保しなければならないが、まず困っている自治体に手をさしのべようとする思いを抱くことが、人間らしい姿だと感じる・・・。

 町民に伝えず立地進めるとは(栃木県、無職、64)
 国は・・・原発事故で汚染された土や廃棄物を福島県内で中間貯蔵する施設の候補地を発表した。うち2ヵ所は私の自宅のある双葉町内に造るという。だが私たちは何も知らされてこなかった。町と私たちの将来にかかわる大事な課題だ。町民全員の意見を聞いて進めるのが当然だ・・・。

 原発事故は大切な時間を盗む(愛知県、主婦、57)
 7月、東京であったさようなら原発10万人集会に参加しました。・・・同時に青森県六ヶ所村も訪ねました。PR館とパンフレットに何かを信じ込ませようとする気味の悪さを感じました。・・・もう一度事故が起きたら、日本銀行券はただの紙となるかも知れません。そしてこの事故は多くの人々の大切な時間を盗んだことも忘れないでください・・・。

 除染のめどつかず 市の怠慢(福島県、主婦、49)
 ・・・私は、自宅周辺の放射線量を測定しました。高いところは3マイクロシーベルトもあり、安全とは言えません。・・・市に持ち込みました。「早急な除染を」と訴えましたが、「除染はいつになるかわからないが、(この値では)安全ですから」の返答、疲れて声に出す力もなくなりました。・・・未来の子どもたちが安心して暮らせる日本にしてほしいと思います。


 それぞれの言葉に反論することは可能である。中には実行不可能な要求だろうと思えるものだってある。ただこれら全部に、一つだけ共通して言えることがある。それは恐らく投書した人だけでなく、被災者全員、いやいやそれ以上に日本国民のほとんどが抱いているであろう、たった一つの疑問が誰の気持ちの中にも重い石のように澱んでいることである。それは何か、単純である、「安全」であることの確信が得られていないことである。

 安全について、私はこれまで何度もここへ書いてきた(別稿『安全と万が一1』、『同左2』参照)。恐らく政府も識者も、安全であることについてそれなりの努力を払ってきたことだろう。それでも、人々にその気持ちが伝わらないでいる。安全とは「口頭による繰り返し」なのではない。事実をもって示すことである。特に相手は五感で感知することのできない放射能である。しかもその影響は数日や数ヶ月で表れるものではなく、場合によっては癌発症や遺伝などを通じて数十年、もしかしたら我が子我が孫に表われる場合だって考えられるのである。安全宣言をする者にはそこのところをきちんと理解したうえで、「ここまでは分かっている」ことをきちんと示し、もし「分からない」ことがあるのなら「この点は分からない」とはっきりと言う覚悟が求められているのである。

 「安全です」、「心配ありません」、「大丈夫です」などなど、私たちは幾度となくこうした言葉を、政府や専門家などから聞いてきた。でもそうした言葉が国民の一人ひとりの心に届いていないことが、こうした新聞に掲載された意見から明らかに読み取ることができる。放射能禍がだれの目にも安全に解決されていると理解されているなら、こんな意見など出てくることなどないと思うからである。もしそれでもこうした意見が出てくるなら、それは場合によっては安全である根拠をきちんと示した上で、その主張エゴであり、わがままであり、身勝手だと言ってもいいような気がする。

 こうした安全に対する不信感を上書きするような報道は依然として続いている。がれきの広域処理の候補に上がっている北九州市で開かれた市民勉強会では「放射線量が低くて安全といっても、それは確認できていない、全国に散らしてはいけません」との声が出ているし(朝日新聞、2012.9.14、プロメテウスの罠)、「これ以下なら安全といい切れる値はない。政府が安全といい切っていいのか」との意見も依然として根強いものがある(同上、プロメテウスの罠)。

 そして最近の極めつけは福島県の市町村の考え方である。「学校給食に含まれる放射能がどの程度なら影響がないかを示す国の『安全基準』に対して、福島県の自治体の8割近くにあたる46市町村が、国よりも厳しい『独自基準』を設けていることが、朝日新聞の自治体アンケートでわかった」(朝日新聞、2012.9.17)ことである。そして市町村が抱いている基準たるや「国の基準1キロ当たり100ベクレル以下」に対し「2ベクレル以下」が3町村、「10ベクレル以下」が17市町村、「20ベクレル以下」が16市町村になっているのである(同上記事)。

 いかに給食という子供に限定された食品の基準であるにしろ、政府だって年齢による人体への影響を考慮して乳幼児、子供、成人を意識した安全基準を定めている。だが現実の運用に際して8割もの自治体が、その基準を下回る基準、それも大幅に下回る基準を独自に定めているのである。
 このことはつまり、政府の言う「安全基準」を8割の市町村が信じていないことを示している。もちろん「放射能値は低いにこしたことはない」との意見もあるだろう。でも政府が安全と宣言している値に対してより多額にかかるであろう機械の費用や手間の増加を覚悟し、使用できない食品(恐らく地元産)が多発するであろう恐れをも覚悟してこれらの市町村は、国の基準の20分の1、10分の1もの独自基準を決めたのである。

 これは市町村独自というよりは、そこに住む住民の意思によるものなのかも知れない。だだ言えることは、政府の決めた放射能値の基準に対して、少なくともその放射能を受ける可能性のある地域の住民は、絶対安全であることを信じられないでいるという事実がこの独自基準から明確に読み取れることである。
 もちろん「信じられない」ことと「事実として放射能の影響はない」こととは無関係である。でも五感で感知することのできない放射能の影響という事実に対しては、「何かを信頼する」以外に人は頼ることができないのである。数年、数十年を経た将来のある時になってから「やっぱり影響がありました」と言われても、私たちは時をさかのぼってその影響をゼロにすることなどできないからである。

 福島産の米の検査が始まった。スーパーなどの食品流通商社が独自検査で「放射能ゼロ」を表示して様々な食品の販売をしようとする動きに対して、政府の検査はあくまで安全基準値を超えているかどうかのみにこだわっている。だから基準値以下の流通と言っても、その測定値を商品に表示するのではない。100ベクレルの基準に対してその商品の放射能値がたとえば50ベクレルだったときに、その「50ベクレル」を米の袋に表示することはないのである。恐らく、「検査済み」そして「基準値以下だから安全」のレッテルを貼るだけのことになるのだろう。そうした表示の米を、独自基準を国の10分の1、20分の1と決めた市町村では恐らく学校給食に使うことはない。安全であることの信用がない状態で、いくらその宣言に危惧している状況を「風評だ」などと非難してみたところで、そのことだけで安全宣言への信頼が回復するわけではない。

 安全宣言が国民に届かないのは、安全であることのPRのくり返しが足りないからではない。安全であることの事実が伝わらないからである。政府も識者も「安全です」を繰り返すことではなく、統計や推測ではなく事実として安全を国民に示す必要があるのである。
 それとも、国にも識者にも、安全を国民が納得できる形で示すことはできないのだろうか。できないから、バカの一つ覚えのように「安全です」を繰り返すしかないのだろうか。だとするなら、私たちはその行為をいかに批判されようとも、「危うきに近寄らず」の教訓を自力で実践するしかない。


                                     2012.9.20     佐々木利夫

(追補)  これはテレビ番組表に載った番組紹介の記事である(2012.9.23)

 東日本大震災後の日本を覆う大きな不安の一つは低線量被曝の将来的な影響がよくわかっていないことだろう。26年前の原発事故によって似た状況に置かれたウクライナの街では、異変が起きているという。
 チエルノブイリから140キロ離れ、線量が低いため移住の必要はないとされたコロステンでは、大人の心疾患や甲状腺ガンなどが増加している。地元の小学校では、事故後に生まれた子どもたちが慢性疾患に苦しみ、日に3回救急車を呼ぶことも。地元の医師は事故の影響だと主張するが、国際機関は調査の不備などを理由に関連を認めていない(2012.9.23、チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告、Eテレ 夜10:00)

 私には関連があるのかどうかの検証はできない。ただ言えることは、こうしたケースでは「立証できないことは無罪」との理屈は成立しないことである。「無罪の立証があってはじめて、事故との因果関係が否定される」ことが大切だと思うのである。この記事のような疑心暗鬼の渦中に私たちは、耳ふたがれ、目隠しされたまま閉じ込められているのである。

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東日本大震災の後遺症