今年の日本列島は、地球温暖化の話題などすっ飛んでしまうような異常な寒波に襲われているようだ。もっとも地球物理学の知識など皆無に近い私にしてみれば、単純に「温暖化」という言葉と「今年の冬は特に寒い」の実感の対立だけによる感想にしか過ぎない。だから温暖化の影響というのはそうした激しい寒暖の差としても表われるのだといわれてしまえば返す言葉などない。沖縄にもこれまで何度か雪が降ったことがあると聞いたから、今年はそこまでの異常ではないらしい。だとすればこの程度の気温の変化は気候の揺らぎの範囲なのだといってもいいのかも知れない。

 とはいっても豪雪で車が数百台渋滞したり、除雪作業などで屋根から落ちたり埋まったりした死者が100人近いなどと報道されたり、場所によっては3メートルを越す積雪の映像も含めて今年の冬はテレビニュースの格好の話題になっている。そんなニュースの一つに、富山県のある町からの中継で軒下から地面近くにまで届くようなつららの映像が画面いっぱいに映し出された。そしてアナウンサーは息も絶え絶えにやっとこの町にたどり着いたかのように声を弾ませ、防寒具にしっかりと身を包んでカメラに向ってこんな一言を発する。「この町はこんなにも寒さが厳しいのです」

 つららはしたたる水が凍ってできるものである。だから寒さの一つの兆表であることに違いはない。滝の水が凍るのも、池や水溜りが凍るのも、それら全部が寒さが原因である。だとするならこのアナウンサーの言っていることに誤りはないことになる。ただ、それでも私はこの一言になぜかしっくり来ないものを感じてしまったのである。

 北海道で生まれて北海道に育ち、研修で2〜3年離れた以外は北海道だけで暮らしてきた私は、まさに純粋な道産子である(別稿「道産子の誇り」、「大阪弁とわたし」参照)。毎年のように雪と氷と寒さのくり返しの中で冬を過ごしてきた道産子であり、つららなど見慣れた風景である。そんな私でもこのアナウンサーのつららに対する表現はどこか気になってしまったのである。

 それはつららは単なる寒さの象徴だけではないと思ったからである。もちろん寒さがつららを作っていく一つの要素であることに違いはない。だが寒さだけでつららができるものではないのである。つららは軒先から少しずつ伸びながら成長していくものである。それはまさに氷のかたまりである。かたまりを作るのは寒さである。でも寒いだけでつららができるのではない。もし寒いだけでつららができるのだとするなら、富士山の山頂や南極のぺんぎんの回りはつららだらけになっているはずだからである。

 ここまでで分かるように、つららはほとんどの場合家の軒下にできるのである。山のてっぺんの松の木には決してできないのである。もちろんもう一つ代表的なつららがある。滝である。冬になって滝の水が凍りだして独特の風景を醸し出すことは、あちこちの風物詩になっているくらい身近な映像である。
 つまりつららは水でできているのである。そんなことくらい言われなくたって分かっていると思うかも知れない。当たり前過ぎるほど当たり前の、常識以前の問題だと思うかも知れない。でもアナウンサーの一言にはその当たり前過ぎる常識への意識が欠けているように思ったのである。

 つららは毎日のように寒さによって伸びていく。それはやがてテレビで放映されるような地面に届くほどにも豪快な姿になることだってある。それはまさに軒下から地面までの成長である。だがその成長には伸びるための原資が必要なのである。人間が食べることによって身長を伸ばし体重を増やしていくように、また木々が数百年数千年を経て巨木になっていくように、そうした成長のための糧を栄養素と呼ぶかそれとも原料と呼ぶかはともかく、成長のもととなる食料が必要になるのである。

 つららの場合のそれは水である。液体としての水である。水なしでつららは発生はおろか1センチの成長すら望めないのである。滴り落ちる水が凍ってつららの一歩が始まる。その固まったつららを伝わって更に滴る水の一部が、落ちきれずに途中でそのつららに凍りつく。その凍りついたつららの表面を次の滴りが地面へと向う。かくしてつららは長い時間をかけて成長していくのである。

 つららの成長に必要なのは水であることは分かった。それではその水はどこからくるのか。もちろん雨であることもあるだろう。だが季節は冬である。降った雨がその後の気温の低下で凍りつく現象がないとは言えないだろうが、多くの場合屋根に降った雨が凍ることでつららになるとは考えにくい。だとすれば残るは雪である。屋根にはこれまでの雪が始末に困るくらいに積もっている。

 雪が融けると何になるか。私は「春」との答えが大好きだけれど、今回のテーマに関して言えば「水」である。ただしその「水」は、春が近づいてきて気温が上がってくることによる雪融けでは困るのである。先ほども説明したとおり、季節の変化による雪融けでは、昼間の雪融けが夜の寒さに凍りつくケースはあるだろうけれど、今回のアナウンサーの発言である「厳しい寒さ」とは時期が異なり矛盾してしまうからである。

 つららの原資が「水」であることは分かっただろうし、その更なる原資が「雪」であることも分かったことだろう。そうするとその「雪」が「水」に変化しないことにはつららの生成もまた覚束ないことになる。その変化の原因を季節の変化に求めることはできないことは先に書いたとおりである。にもかかわらず「雪」が融けないことにはつららは成長していかないことは事実である。

 季節の変化、つまり春が近づいて雪融けが始まる以外に屋根の雪が融けだす要因は何か。これははっきりしているだろう。屋根の雪にお湯を撒いて雪を融かすような酔狂な人はいないだろうから、残るはたった一つ室温である。屋根そのものを暖房して雪を融かそうと考える人がいないとは限らないだろうが、人が浴室や部屋の暖房として利用している様々の熱が、壁や天井を伝い屋根裏を通して次第に雪を融かすのである。これこそが人家の屋根から軒下へと成長してくるつららの栄養源として、その大きさや長さを決めるのである。

 もちろん融けてきた雪が途中でつららとなって再び凍るためには氷点下の気温が必要である。水は0度で凍るけれど、それでは現実的にはつららはできない。どの程度の気温なら効率よくつららが伸びるのか私には知識がないけれど、恐らく氷点下5〜6度もあればつららは成長していくのではないだろうか。

 さて結論である。つららの成長には氷点下の気温が必要である。ただそれは水が凍るだけの寒さがあればいいのであって、寒ければ寒いほどどんどん成長するというものではない。だからこのアナウンサーが地面に届くように伸びたつららを前に言い放った「この町はこんなにも寒さが厳しいのです」は誤りだと思うのである。つららの巨大さは寒さの象徴であることよりも、むしろその建物に住んでいる人の暖房への意識の不徹底さ、そして更に言うなら建物そのものの暖房効率の悪さの象徴なのだと私は密かに思っているのである。

 なぜならそれはこうした理屈からも分かることだし、それに加えて私の生い立ちからも実感しているからである。私の生まれ育ったのは今でこそ日本一借金の多い自治体になっている夕張市である。私の生い立ちから青年期の夕張は、石炭の町としてまさに成長期にあり人口増加も含めて右肩上がりそのものであった。その夕張で私は炭鉱夫の息子とし幼少期を育ったが、その住まいは「炭住」と呼ばれるハモニカ長屋であった。木造のその建物はどこでも似たようなものだっただろうけれど隙間風の入る建てつけの悪いものだった。しかも燃料である石炭は会社から一定量を無料で支給されていた。つまりただである。冬は寒い。ストーブは煙突まで赤くなるまで豪快に燃やしていた。それでも暖房は腹側を温めると背中が寒いくらいに熱効率の悪い建物だった。

 その必然としてストーブの熱はいくら燃やしても天井裏から屋根へと抜け、それはそのまま屋根の雪を融かして巨大なつららが軒先にぶら下がるのが当たり前だったからである。それは我が家だけではない。見渡す限りのハモニカ長屋の全部が揃ってつららに覆われていた。だから、ストーブをどんどん燃やすことによって煙突の内側にこびりつく煤を取り除く煙筒掃除と煙突が室外へ抜ける場所を中心とした巨大なつららを含めた氷のかたまりをつるはしなどで叩き落す作業は、父だけでなくそれなりに育ってきた子どもにとっても、そして我が家だけでなく夕張に住むほとんどの家庭の大切な作業だったのである。

 だからあれだけストーブはおろかつながっている煙突まで赤くなるまで燃やした豪快な暖房が、そのまま屋根裏から抜け出てつららとなってしまう仕組みを私は子供の頃から知っていたのである。


                                     2012.2.10     佐々木利夫


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つららの成長