思いやりだとか優しさ、そのほか正義でも良心でも、なんなら信仰だとか働くことのような一生懸命みたいな観念まで含めて何でもいい、世の中に人として良かれと是認されている行動はあふれるほど存在している。そうした是認されているはずの行動の動機の中に、もし仮にほんの僅かにもしろ不純さや思い上がりみたいなものが含まれていたとしたら、それは行動全体を汚すものになるのだろうか。
 こんなとんでもない思いに駆られてしまったのは、ある行動そのものを誤りだと言うつもりはさらさらないにもかかわらず、どこか本質から遊離しているのではないかとの疑問が感じられるようになってきたからである。

 それは、昨年の東日本大震災の復興に向けた多くの人々の行動をテレビなどで見ているうちに、どこかストンと私の気持ちの中に落ちていかないケースが増えてきているように思えてきたからである。
 例えば政府が「復興宝くじ」を発行するとの話題があった。テレビカメラを向けられた多くの人が「それならぜひ買いたい」と答える映像がニュースで流される。そして実際に1100億円を超える売り上げがあり、総務大臣が「この中から150億円が復興支援に充てられる。(国民の)復興を支えようとする気持ちがこのような売り上げになった」と自賛する映像も同時に流される。

 政府の予算を使わずに徒手空拳で150億円もの復興支援の増額が実現できたのだから、宝くじという施策がそれなり意味があっただろうことを否定はしない。それでもどこか「復興支援のために政府が宝くじを発売し、多くの国民がその宝くじを復興支援のために買う」という構図の中に、私は被災地の復興を支援するために国民の有志が私財を投入するという本来の意識とは少し違うものを感じてしまったのである。「宝くじを買うこと」の中に「復興支援の気持ち」が含まれていないと思ったわけではない。それでも復興を支援するために宝くじを買いましたとニコニコ顔でテレビカメラに映っている人たちの姿に、どこか私は素直になれないでいるのである。

 被災地への旅行もそうである。震災地域の観光は悲鳴をあげている。地震で建物などが破壊された上に放射能被害まで重なって、受け入れ側の体制はもとよりそうした被災地へわざわざ行こうと思う人が減ったことはむしろ当然のことかも知れない。だからこそあえて東北ツアーを組んで観光地の賑わいを少しでも取り戻そうとの計画がある。そうした行動が温泉旅館や観光地などの賑わいに結びつくだろうことは否定できない。でも観光バスを仕立てて団体客が被災地の観光めぐりをする姿には、どこか被災しなかった者の驕りみたいな気持ちが感じられてならない。

 日本各地のデパートやスーパーなどで、被災地の特産品や名産品などの物産展が盛んである。こうしたイベントによって被災した地域の商品の売り上げが増え、その地での生産活動が活発化し雇用や復興につながるとの意味が分からないではない。ただそうは言っても、被災地を支援するために福島の饅頭を買いましたなどと自己満足をあからさまに示して善意に満ちた顔つきの主婦の姿などを見ていると、どこかそうした行為に素直には共感できないような気持ちになってしまうのである。

 こうしたケースだけではない。所得税の確定申告が3月15日に終わって、とりあえず税理士稼業の私も少しほっとしているのだが、平成20年分から始まったふるさと納税についてもどこかしっくりこないものを感じている。この制度は任意の地方自治体に対する寄付金控除のようなものだが、この制度の利用が今年は急増したとの報道を見た。見返りを求めないのが寄付なのだと言ったところで、その支出を幾分かでもどこかで回収できるのならなんとかしたい、しかもその回収が国に対する納税額からできるのなら誰に迷惑かけるのでもない、と思ったところでそれはそれで構わないのかも知れない。でも「少しでも回収できることを考慮した寄付」というのは、どこか寄付本来の気持ちからは少し離れているように思えてならない。

 こうして並べてみると、それではこれらの行為を実行したことと「何にもしなかった」ことを比べて、何もしなかったほうにより正義に近い行為として軍配を上げるのかと問われるなら、それもまたどこか躊躇してしまう自分がいる。それがたとえば金満家の気まぐれによる寄付に対して、子どもが自分の思いだけで貯金箱を壊して投入した募金箱への100円とを比べるのならともかく、募金箱を無視して素通りしてしまう者よりも金満家の気まぐれの寄付の方に、僅かにもしろ善意のヴォリュームの高い評価を与えたいような気持ちが残ってしまうからである。

 それは寄付に限らず宝くじでも東北観光旅行への参加でも、福島名産の酒を買うことや岩手県にふるさと納税をすることであっても同様である。そうした行為が仮に気まぐれや上から目線の意識によるものであったとしても、なんにもしなかったことと比べたときには同じような気持ちに襲われる。

 そうした気持ちの葛藤をどんなふうに理解したらいいのだろうか。もしかしたらこうした善意を含む行動というのは、秘匿することに意味があるのだろうかとも思ってしまう。自らに与えられる高得点とは、自らのみのものとして身の裡に抱えてこそ意味があるのであり、たとえどんな事情があるにしろそれを外部に公表してしまったとたんにその特典は善意としての神通力を失ってしまう、そんなことまで考えてしまう。

 こうした例は昔話などにも数多く見られる。たとえば「鶴の恩返し」(別稿「つるの恩返し」参照)であるとか雪女(別稿「雪女」参照)がそうであり、そのほかにも望むものなら米や酒に限らずどんなものでも出てくるような臼や茶碗を妖精や動物などからもらう話や花坂爺さんなどもそうした系譜に連なるものかも知れない。「誰にも言うな、言ったとたんにその恩恵や神通力は消えてしまうぞ。場合によっては恩恵を受ける前の状態よりも悪くなるぞ」、そうした沈黙を強いるような伝承はけっこう多いような気がしている。

 そうした伝承が多いのは、たとえそれが善意や正義に基づく行為であったとしても、その行為を秘したままにしておくことの中に、少なくとも日本人は善意や正義持つ意味を承認してきたのではないかと思うのである。ひっそりと宮城への旅行をする、ひっそりと盛岡の饅頭を買い東北産の米や野菜を食べる、ふるさと納税ではなく無名で密かに東北の地域へ寄付をする、そうした行為を誰にも言わず、誰にも知らせずに実行する、そうしたことの中に私たちは善意や正義の意義を認めてきたのではないだろうか。そしてそうした善意の意義は口外したとたんにその効力を失うのではないか、そんな気がするのである。そうしたイメージが、私たちが抱く善意や正義の中に内包されているのではないかと私は思っているのかも知れない。
 そしてそれはもしかしたら、公開され他者に知られた行動には、「なんにもしなかったことよりも低い評価を受けても仕方がないのではないか」との思いにつながっているのかも知れない。「大切なことは、口に出さないものなのだ・・・」、どこかで読んだ一言がほんの少し後押ししてくれているような気がする。


                                     2012.4.6     佐々木利夫


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優しさの軽さ