(ヨブ記1・「神と悪魔のゲーム」からの続きです)神から「お前の好きなようにしていい」との許しを得た悪魔は、直ちにヨブの持つ財産への干渉を開始する。まずヨブは「牛と雌驢馬」を奪われ、そしてそれらを扱う「若者」が殺されてしまう(一章一四節)。次いで「天から落ちる神の火」(雷のことだろうか)で「羊」と「若者」が焼き殺されてしまう(一章一六節)。悪魔の所業の止むことはない。ヨブは更に「駱駝」を奪われ「若者」も殺されてしまうのである(一章一七節)。

 「若者」とは財産としての奴隷のことだろうから、恐らくこの記述によってヨブは持っている財産のすべてを失ったことを象徴しているのだろう。神はヨブの身体を除き、全財産に対する自由な処分を悪魔に委ねたのだから当然でもあろう。だが、悪魔が神から得た言質の効力はこれしきのことで済むものではなかった。ヨブは使者から「あなたの息子、息女たちが長兄の家で食事し、酒を飲んでいると突然大風が荒野の彼方から起こって。家の四隅をおそい、・・・みな死にました」(一章一八節)」と告げられる。ヨブの妻は後から登場するので、この災厄には遭遇しなかったのだろう。たがここでヨブは我が子のすべてを失ったのである。

 妻が血族的に「他人である」ことを前提にするなら、これで彼は持てる財産のすべてと自らの血を引く家族の全部を失ったのである。まさに悪魔は「ヨブ自身の身体」以外の全部を、ヨブから取り上げたのである。しかもそれは悪魔が身勝手に振舞った結果ではない。悪魔は神から許された範囲内でこのゲームを進めたに過ぎないからである。

 ヨブは自らの責任でない理由により、こんなにも理不尽な扱いを受けた。それでも彼は「そこでヨブは立ち上がり、・・・地に平伏し、拝して言った。『裸で私は母の胎から出た。裸でわたしはかしこへ帰ろう。・・・ヤハゥエのみ名はほむべきかな』」(一章二十・二一節)と祈る。裸で生まれたのだから、子どもも含めて無一物で放り出されても神を恨むようなことはしないとして、なお神への信仰を捨てようとはしなかった。

 神はこの結果を見て、悪魔とのゲームに勝ったと思ったに違いない。こんなにも理不尽な扱いを受けたにもかかわらず、ヨブが信仰を捨てることはなかったからである。神なのだから、ここで「私が勝った」と悪魔に宣言し、このゲームを終了させることはできたはずである。この段階でゲームを終了させることこそが、こんなにも不当な扱いを受けたヨブに対する、せめても罪滅ぼしになったはずである。

 だがこれしきのことで悪魔が引き下がることはなかった。神は確かに「私が勝った」と悪魔に言った。「・・・ヨブを見たか。・・・お前がわたしを唆かして、理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが、彼は依然かたくおのれを全うしておる」(二章三節)と、悪魔の敗北を宣言した。

 それでも悪魔の方が一枚上手だった。「・・・人は自分の生命のためなら、持物をみんな差し出すのです。だがお待ちなさい。あなたの手をのばして、彼の骨と肉にふれてごらんなさい。彼があなたの顔に向かって呪わないですみますまい」(二章四、五節)、悪魔は神に向かってこんなふうにうそぶく。
 「信仰なんてものは財産はともかく、我が身に加えられたちょっとした痛み程度のことで簡単にひっくり返るものですよ」、悪魔はあくまで神を挑発する。勝負に勝っていたのだから、神はそんな挑発に乗る必要などなかった。ましてやこれ以上ヨブに過酷さを与えることなど望まなかったことだろう。しかし挑発を受けた神としては、悪魔がまだ屈服していないのだから、このゲームを続けるしかないと思ったのだろうか。それは神が絶対者を自認していることからくる驕りだったのかも知れない。

 ゲームの掛け金は更に跳ね上がる。今度の掛け金は「ヨブの命以外の全部」である。神は悪魔に言う、「さあ、彼をお前の手にまかせよう。ただ彼の命は助けてやれ」(二章六節)。確かにヨブは全財産と我が子を失った。残るは我が身だけである。その残されたたった一つを、こともなげに神はルーレットの前に投げ出したのである。それも本人の何の承認もなしにである。確かに「命だけはとるな」とは言っている。それはそうだろう。彼が命を落としてしまったら、賭けそのもの、ゲームそのものが成立しなくなってしまうのだから当然と言えば当然のことである。

 悪魔の勝ち誇ったような笑い、それも神に背を向けて高笑いしている姿が目に見えるようである。悪魔はこの一言でヨブの命以外の全処分を委ねられることになったのである。既に彼は持てる財産の全部と肉親のすべてを失っている。こんな絶望の身にとって、生きていくよすがとして何が頼りになるだろうか。
 その答えはもちろん人により様々であろう。でも神でも悪魔でもない当たり前の人間として望みだとするなら恐らく、健康な身体、支えてくれる妻、親しい友の存在などが最後の拠り所になるのではないだろうか。そして彼の場合にはこれに神への深い信仰が加わるかも知れない。

 しかし頼りの神は、彼の信仰を確かめるためと称して悪魔とのゲームの真っ最中である。神なのだから彼を助けることなどたやすいだろうけれど、手を差し伸べることはイカサマをすることと同じであり、それはそのままゲームの敗北を認めることを意味する。神が負けるなどということはどうしてもあってはならない。それがたとえ悪魔の仕掛けた罠だと気づいたとしてもである。ゲームはこのまま続けるしかない。

 手始めに悪魔は「・・・ヨブの足の裏から頭の天辺(てっぺん)まで悪い腫物(はれもの)で彼を打った。そこでヨブは陶器のかけらをとって体をかきむしり、灰の上に坐っていた」(二章七節〜八節)をヨブにぶつける。ハンセン氏病ではないと言われているが、なんとおぞましい仕打ちであろうか。悪魔は誰の目にも外見から分るような皮膚病をヨブに与え、彼は街外れのごみ溜めにひっそりと孤独の身を置かざるを得なくなったのである。

 それでもまだ彼には伴侶が残っている。子のすべてを失ったとしても、愛する妻がこの責め苦を共に耐えてくれるなら、人はまだ生きる望みを残すことができるだろう。悪魔が妻をそのようにコントロールしたのかどうか、それは分らない。だが彼の妻の出した答えは次のような残酷なものであった。「彼の妻が彼に言う。『あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに』」(二章九節)。「信仰なんて何の助けにもならない。死んでしまったほうがいい」。彼は妻からも見放されたのである。

 残るは「友」である。三人の友人が登場する。ヨブの不幸を聞いた彼らは「・・・一緒に集まって、ヨブを見舞い、彼を慰めるために」(二章一○節)訪ねてくる。だがその友もまた「正しいものは報われる。正しくないものは罰せられる」とする考えから抜け出せない。いくらヨブを慰めたとしても、彼の受けている不幸は「彼自身の罪の報いなのだから、洗いざらいさらけだして神の許しを乞え」との助言以外にはなりようがないからである。ヨブが受けているのは神の罰であり、ヨブは罰を受けるような正しくないことをしたに違いないとの思いで凝り固まっているからである。その犯した罪が友の目に見えないなら、それは彼が隠しているからに違いない。

 「もし君が神を切に求め、全能者に恵を乞い求めるなら、もし君が清く正しくあるなら、彼は君のためにその身を起こし、君の住居を元通りによくしてくださる」(八章五、六節)。「君の手に不義があれば除け、君の天幕の中に悪を住居せしむるな。そうすればその時君は顔上げて恥じることなく君はかたく立って恐れることはなかろう」(一一章一四、一五節)。

 友もまた救いにはならなかった。友は口では慰めているけれど、「神の罰」としか信じられない現実を見て結局は「隠している罪を告白せよ」と迫るだけだからである。見に覚えのないヨブにしてみれば、友の助言はまさに理由なき糾弾であったことだろう。友人の数は三人であるが、その数の意味するところはすべての友人や知人が離反したことを象徴しているような気がする。この離反を悪魔が画策したとの記述はないが、かくして彼は財産的親族的にも、肉体的にも、そして精神的にも、持てるすべて、つまり「我が身の命」以外のすべてを失うことになったのである。

 イエス・キリストは姦淫の罪で捕えられた女の前に立ちふさがり、大衆に向かって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言った(新約聖書 ヨハネの福音書 八章七節)。石を投げつける者は一人としていなかったと聖書は伝える。「姦淫」は神自身が十戒としてモーゼに託した罪の一つである(旧約聖書 出エジプト記 20章14節)。神が定めた罪を犯してさえ裁かれることのない場合のあることを聖書は示している。

 だがその同じ神が、何の罪も犯していないヨブに対し、自らの手を汚すことなく、ゲームの掛け金としてヨブのすべてを差し出し、しかもゲーム内容をヨブに知らせることすらしないまま、かくも過酷な運命を与えることを悪魔に認めたのである。


                               ヨブ記3 「ヨブの訴え」に続きます。


                                     2013.7.25     佐々木利夫


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ヨブ記2・翻弄されるヨブ