最近、旧約聖書のヨブ記を読む機会があった。聖書はまさに聖なる書物であり、キリスト教更にはユダヤ教までをも含めた世界最大の宗教の原典でもある。だが、それを離れて歴史や神話や世界を考える上での一つの物語、もしくはもっと気楽な軽い読み物として触れることでも、私たちにとても豊かな時間を与えてくれる材料である。ただ私の好きな部分は、恐らく旧約聖書と聞いた人の多くがそうだろうけれど、創世記を中心とした物語のほんの僅かな部分でしかないことに少し口惜しくはある。

 現に私がこれまでここに書いたエッセイでも、聖書に触れた部分には旧約聖書の引用が多いことに気づく(アダムとイヴの創造について「男のおっぱい」、土に還る人の死「死んだらどこへ行く」、バベルの塔の意味「バベルの塔の教訓」、太陽の前に光があったことの矛盾「昼寝のつづき」、アダムとイヴの誕生「パンドラの犯した罪」、ロトの妻の犯した罪「ロトの妻」、不死と知恵の木の実「不死への願望」、ノアとその子供たち「飢えのない時代」、天地創造の時期「国破れて山河あり」、ノアの箱舟「雑記帳始末気No13」170、原罪「雑記帳始末記No15」197など)。

 でも私はこのヨブ記に触れてから、旧約聖書の持つ意味を少し考えなおさなければならないような気持ちにさせられている。もちろん私はヨブ記を通読はした(旧約聖書 ヨブ記 関根正雄訳 岩波文庫1989年)。そうは言っても、ヨブ記をどこまで理解したかと問われるなら、まるで理解していないと言ってもいいくらいに消化不良のままである。だからこれから書こうとしていることも、私が頭で理解したつもりになっているだけの中途半端どころか誤解、曲解まじりの身勝手な独断かもしれない。それでもなお私はこのヨブ記に、私の理解していた旧約聖書からは遠くはみ出した、新たな印象を感じたのである。

 ヨブは財産的にも家族的にも恵まれた幸せな人物である。何をもって恵まれたと評価するかは難しいかも知れないが、ヨブ記の冒頭に「7人の息子3人の息女、そして羊7000頭、駱駝3000頭、牛500頭、僕婢の数はおびただしく・・・」(ヨブ記 第一章二節・三節、関根正雄訳 岩波新書、以下ヨブ記の引用はすべて同書からである)とあるから、彼が比較的富裕であることをうかがい知ることができよう。しかも「全くかつ直く、神を畏れ、悪を遠ざけた」(一章一節)として、彼が信仰厚き生活を送っていることも同時に書かれている。ところでこの信仰の厚さが彼の悲劇を生む原因になってしまうことは皮肉と言えば皮肉である。しかも彼のまったく関わりのないところからである。

 仏教には「親の因果が子に報い」だとか「前世からの因縁」などと言った、たとえ罪を犯していなくても両親や本人が前世に行なった悪しき所業の責任が、後世に伝わることを認める教えがある。そうした考えを必ずしも私は承認するわけではないが、それはそれで宗教の一つの考え方であろうことを否定するつもりはない。
 しかし聖書を巡る世界には、こうした親の責任や前世の罪がその子どもや生まれ変わった本人に引き継がれるとするような考えは出てこない。「神の律法を守りさえすれば恵まれた生活ができる」のが基本であり、「反するような行為をしなければ呪いや罰を受けることもない」ことは当たり前のこととされている。まさに「不法な者には災いが 悪をなす者には不幸が臨むのは当然だ」(三一章三節)との考えが前提となっている世界なのである。ヨブ記を読む限りヨブに律法から外れるようなどんな行為も記されていない。それにもかかわらず、その彼に突然の不幸が襲うのである。

 彼の受けた悲劇の発端は、私に言わせるなら単なる神の気まぐれである。お釈迦様が気まぐれであることは、かつて芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」に触れたときに取り上げたことがある(別稿「蜘蛛の糸」参照)。だから「神様ってのはもともと身勝手で気まぐれなものなのさ」、と開き直ってしまえるのならそれはそれでいいだろう。でも神仏を人からの信頼を基本とする信仰の絶対者としての地位に置こうとするのなら、少なくとも私はそうした考えを採りたくない。

 しかもヨブに対する神の気まぐれは、直接ヨブに向けられたものではなかった。ヨブは神と悪魔のゲームに、何の関わりもないままただ巻き込まれたに過ぎなかったからである。悪魔については前にも書いたことがあるけれど、神に対立する二元論的な存在ではない。神は絶対なのだからその存在は一つでなければならないからである。悪魔もまた神に仕える天使の一人である。

 そう言えばゲーテの名著「ファウスト」も、ヨブ記と似たようなパターンを示している。「人間の魂を悪の道へ引きずり込めるか」をテーマとした神と悪魔メフィストフェレスの賭けであり、そしてそのゲームに選ばれたのが老いた哲学者ファウストだったというわけである(別稿「多分、恐らく、二度目の挫折」参照)。神も悪魔も基本的に賭け事が好きなのかも知れない。ヨブ記でも、神は悪魔の仕掛けた罠にまんまとはまることになる。そしてその賭け金として、なんたることか神は自らは何の犠牲を払うことも、また自腹を切ることもなく、ヨブそのものを本人の了解もなしに悪魔の前に差し出したのである。

 神の気まぐれはこんなところから始まる。「ある日のこと神の子たち(この中には当然悪魔も含まれる)がやって来て、ヤハウェ(神のことである)の前に立った。・・・ヤハゥエが敵対者(悪魔のことである)に言われるのに『お前は心をとめてわが僕(しもべ)ヨブを見たか。あのような奴は地上にいない。全くかつ直く、神を畏れ、悪に遠ざかっておる』」(一章六節、八節)。

 ヨブの人柄については一章一節にも書かれおり、神自身がヨブをこのように語っているのだから、彼はまさに誠実で信仰厚き者であって律法に反したことなどないことは誰もが認めていることになろう。でもヨブが「例を見ないほど誠実である」との一言を、神はどうしてわざわざ悪魔に向かって言ったのだろうか。まさに神の放ったこの一言こそが気まぐれであり、ヨブ記という壮大な物語の始まりであった。

 悪魔は神の問いかけにこう反論する。「ヨブといえども理由なしに神を畏れたりするものですか。あなたが彼と彼の家と彼の持物のまわりに垣をめぐらしておられるのです。・・・だがお待ちなさい。あなたの手をのばして、彼の持物にふれてごらんなさい。あなたの顔に向かって呪わないではすみますまい」(一章九節〜十一節)。

 悪魔は、ヨブの信仰は神が彼の財産を守ってやっているからに過ぎないと反論したのである。ヨブは神そのものを信仰しているのではなく、神が与えてくれる利益を信じているだけに過ぎないと断じたのである。神はそのとき、「フン」と鼻で笑って悪魔を無視し、ヨブの信仰を信じるだけでよかったのである。悪魔のたわ言などに耳を貸すべきではなかったのである。神はここでも自らの気まぐれに拍車をかけることになる。なんと「さあ、彼の持物をみなお前の手にまかせよう。ただ彼の身に手をのばしてはいけない」(一章一二節)と、悪魔の尻馬にまんまと乗っかってしまったのである。悪魔はまさにしてやったりとほくそ笑んだことだろう。にんまりした笑みを隠すのに苦労したことだろう。

 神にはこれから起きるであろうヨブの苦難を想像することすらできず、「ヨブ自身の身体に対する危害」以外の一切に対する、自由な処分や始末を悪魔の手に委ねたのである。ゲームは開始された。我が意を得た悪魔の喜びようが目に見えるようである。この神の一言で悪魔はこのゲームに自らは何の犠牲も払うことなく、まさに他人のふんどしで「神に一矢報いる」ことだけに専念すればいいことになったのである。「信仰とは何か」という、神の本質を問うような重大なゲームがここに始まったのである。


                                ヨブ記2 「翻弄されるヨブ」へ続きます。


                                     2013.7.23    佐々木利夫


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ヨブ記1・神と悪魔のゲーム