季節は冬なんだし、それに北海道に住んでいるんだから当たり前のことなんだけれど、それでも今年は特に寒さが厳しいような気がしている。とは言っても異常気象というほどの変化ではなさそうだし、札幌はそれでも北海道の中では比較的暖かい地区になるから、こんな思いは年寄りのひとりよがりなのかも知れない。

 ところで先日(2013.1.8)の昼のニュースで、北海道枝幸町の歌登地区で氷点下30.5度を記録したとのアナウンスがあった。その地名を聞いて、かつて現役時代に一年間何度か出張で通った町だったものだから、なぜかとても懐かしく思い出された。それは税務職員として採用され二度目の勤務地になった稚内でのことであった。高校卒業し18歳で一年間札幌で初任者の研修を受け、出身地である夕張税務署に配置されて3年、そして最初の転勤が北海道最北の地稚内だった。だからまだ私は22歳の独身、今から50年も前のことになる。

 稚内については強烈な思い出があり、それについては既に書いたことがある(別稿、「私のキューバ危機」参照)。稚内には2年間在職し、主に個人事業者などを調査する部門に席を置いていた。仕事は管内の個人納税者を同僚や先輩と分担して管理するもので、稚内市内の個人事業者は業種別で、市部以外は町村単位で担当していた。そして稚内2年目の私に町村担当として割り当てられたのが「歌登」であった。

 現在の歌登は町村合併で隣町の枝幸町に統合されているが、私が勤務していた昭和37、38年当時は「歌登町」として独立していた。歌登は上のカットの北海道地図の赤丸の位置にある。稚内は多くの人が知るとおり北海道の最北端にあるが、歌登へ行くためにはまず稚内からJR(当時は国鉄だった)でオホーツク海方面へと向かってから南下する天北線に乗る必要があった。途中駅の中頓別で乗り換え、そこから天北線は内陸部へ向かうが興浜北線はオホーツク海岸をそのまま南下し枝幸町(函館の近くにある江差町と区別するため、北海道の人間は「北見枝幸」と呼んでいた)が終点である。そこから歌登までは更にバスに揺られることになる。

 かなり遠い地区であり、東京から来た30歳代の中央官僚であった若い税務署長は、署長室に貼った大きな北海道地図の稚内市にコンパスの針を立て、鉛筆の先を管内の一番遠い地区まで広げて円を書き、この円周は全国で一番大きいのではないかと自慢していたのを思い出す。まあ遠いということは一種の僻地でもあり納税者数も少なかったから、その分だけ新米である私に任せてもそれほど管内行政に影響は少ないと踏んでいたのかも知れない。

 町村担当の大きな仕事は、その地域の納税者の税務申告の個別のチェック(調査)もあるけれど、毎年3月15日が期限になっている前年分の確定申告書の取りまとめが主体であった。法律は申告納税、いわゆる自分で一年間の利益を自分で計算しそれに基づいて自分で申告書を書き納税することを基本としていたが、納税者の多くは記帳していないケースが多かった。そのため、12月までは個別の調査を通じて担当している町村の景況の取りまとめをし、申告期限が近づいてくるとそうしたデータをもとに町役場に納税者を来てもらい、個別に折衝して前年の納税額を決めるのが当時の税務申告の慣習であった。

 様々な業種があり、しかも売り上げも仕入れも経費も、税務職員はもちろんのこと納税者本人さえも分らない(もしくは分らないふりをする)中での手探りの折衝であった。申告期限が近づく3月に入ると稚内市内の納税者との交渉が始まるので、町村はその前、つまり2月中に一週間ほど担当する町に泊り込んで作業する必要があった。

 そんな中での歌登の記憶である。確か泊まった旅館は木造の古めかしい「歌登館」という名称だったように記憶している。自らの担当する町だから年に何回か泊まることはあるが、確定申告の時期はけっこう長い宿泊になる。しかも2月の厳寒期である。年間を通して一番寒いのは冬至から一ヵ月後だと言われているが、内陸部の寒さは1月の末も2月もそれほどの違いはない。しかも現在のホテルのように密閉され、暖房も十分に効いている部屋などない頃のことである。
 だだっ広い和室に渡り廊下みたいのがあって障子で仕切られている、そんな部屋の片隅にまきストーブがある、そんなところでたった一人で過ごす一週間であった。

 そんな時に先日のニュースみたいな寒波が襲来したことがあった。零下30度までになったかどうかの記憶はない。でも寒さは朝、突然にやってくるのである。まきストーブは、寝るときはまだ部屋を暖めていたけれど夜中にはすっかり消えてしまっている。毛布代わりに丹前を被ってその上に二枚ほど掛け布団を重ねているが、それでも肩先からじわじわと寒さが忍び寄ってくる。戸外が氷点下30度になっていたとしても部屋の中はそれほどではないだろうが、半端でない寒さが肩先から容赦なく押し寄せてくるのである。

 そして南無三、そんな時に限って尿意が忍び寄ってくる。まだ障子に夜明けの気配はなく、枕もとの腕時計も朝は近いことを知らせてはいるが、まだまだ起床には早い時刻を告げている。トイレに行けばいいのだが、行けないのである。静かにしていても冷凍庫の中に身を置いているのである。僅かの身動きが、肩先からの酷寒を拡大してしまうからである。身も心も凍りつくような寒さである。しかも、しかもである。トイレはホテルのように客室の中にあるのではない。廊下の外れの薄暗い共同便所までは、やけにだだっ広い廊下を冷たいスリッパで歩いていかなければならないのである。身動きしただけで凍りつくような中で、布団の中から我が身を抜き出して冷たい廊下を往復するなんぞは、非常識とも無謀とも言える行為である。

 尿意を止めるわけにはいかない。だが待つのである。ただひたすら我慢し待つのである。何を待つのか。女中さんが客室を巡回してストーブの火をつけてくれるのを、ただただ耐えて待つのである。薪はストーブの近くに置いてあるけれど、火種がないので自分でたきつけることはできない。もっとも可能だとしても、そのためには布団から抜け出す覚悟が必要であり、そのこと自体が無謀に思えるほどの寒さである。眠るもならず、起きるもならず、尿意とストーブ担当者の来訪のせめぎあいの中に私は必死に耐えるのである。

 日本一寒いと言われている土地にも泊まったこともあるが(別稿、「ふるさと銀河線」、陸別〜しばれフェスティバル、参照)、酷寒の地というのはなにしろビールが瓶ごと凍ってしまうのであえて冷蔵庫で保管するとか、車のエンジンが翌朝寒さでかからなくなるのを避けるため、夜通しかけっ放しにしておくなんてことが真面目に論じられている世界である。

 その零下30.5度が先日、この歌登に北海道の最低記録として来襲し、そして翌日の1月9日はそれを更新する氷点下31.7度になったのである。私の尿意とせめぎあいをしていた50年も前のあの朝とは住宅環境も違うだろうけれど、似たり寄ったりの環境がまだ歌登町に続いていることに、なんだかとても親近感が湧いてきたのであった。

 そして「酷寒零下三十度 銃も剣も砲身も 駒のひずめも凍るとき・・・」と歌われた「満州行進曲」の歌詞とメロディーが、なぜか脳裏に流れてきたのである。満州事変は私の生まれるずっと前のできごとであり、この歌もまた私の生まれる前の曲である。それにもかかわらず私はこの歌のそれも二番の歌詞をどこかで聞いており、しかも70歳を超えた今になって歌登の零下三十度のニュースとともにふと浮かんできたのであった。

 歌登を担当してから50年、この町を私はその後訪ねたことはない。今では私が乗車した天北線も、そしてそれに続く興浜北線もずっと昔に廃線になっている。そして歌登へ向かうためにバスに乗った北見枝幸から歌登を経由して宗谷線の美深駅まで、美幸線という名の鉄路が計画されていたことを思い出した。そしてその線路もまた未完成のまま廃線になってしまったことなどが、僅かに記憶の片隅に残っている。私の生きていた僅かな時間の間ではあるが、鉄路もまた一つの歴史の大きな流れを寒波の襲来とともに語りかけてきてくれる。

                                     2013.1.8     佐々木利夫


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私の酷寒体験