仲間が突然死んだ。いや突然ではなかったのかも知れない。彼が自分の死を私に話したのは5月のことだったから、どの程度の覚悟かはともかく半年くらい前から死への自覚だけはあったということだろう。70歳を共に過ぎたいつもの飲み仲間である。高校卒業までは未知の間柄だったが、共に国家公務員試験の税務の分野を受け北海道で30人が合格し、札幌で一年間寮と併設された研修所でまさに同じ釜の飯を食うという、そんな付き合いが彼との始まりであった。

 税務職とは基本的には北海道に30ある税務署での仕事であり、その他には税務署を総括する札幌国税局、そして後になって設けられた各税務署長などの行った行政処分の適否を判断する国税不服審判所(同じく札幌に一つあったが、職員数15〜16人の小規模機関であった)から成り立っている。もちろん税務署は全国で500を超え国税局も審判所も全国的には12あるから勤務先としてはまさに多様であったが、高卒から採用された者の勤務先は、それぞれの国税局の管内に限られていた。したがって津軽海峡を越えて東北や九州などに転勤させられるようなことはまずなかった。

 ただ税務と言っても法人税・所得税・相続税・酒税など税目は多岐にわたり、そうした税金の管理、収納などを担当する部署や総務系統などの仕事なども含めると、税務署の中も国税局も多くの課・係などに分かれている。だから30人の同期生が30ある税務署で同じ署や同じような仕事に配置される可能性は少なかつたし、仮にそういう場合があったとしても多くの場合、課や係などを考えるなら机を接するようなことはまずなかった。

 彼とも同じ税務署で仕事した経験は一度もなかった。それでも二人とも比較的国税局内で勤務するチャンスが多かった。もちろん継続して一つところの課や係に所属しているわけではなく、互いに北海道各地の税務署への転勤を何度も繰り返しながらの国税局勤務であった。だから同じ建物内での勤務なので、担当する仕事は異なっていても同期生としてそれなりの付き合いは続いていた。

 やがて同じような時期に互いに札幌で税務署長を経験し、そして40年の勤務を経て同じ日付で退職することになり、そして互いに税理士として独立することになった。共に独立した事務所を持ち、同じようなコンピューターや会計ソフトを導入して、二度目の人生を始めることになったのである。

 彼の事務所は札幌の中心にあるマンションの一室で、私の事務所は今の街外れの路地裏のワンルームマンションであった。同じようなマンション一室を利用した事務所だったが彼の方が少し広く、しかも所在地による建物価格の差には著しいものがあった。彼は事務所マンションを買い取って開業し、わたしは場末の賃貸で開業した。彼はマイカーを利用していたので当然駐車場料金を支払っていた。そのせいもあり、買い取りにもかからわず「月々の負担は、維持費や管理料、それに補修積立金や駐車場料金、固定資産税などを加えるとお前の事務所の家賃よりも高くなる」と嘆いていたものだ。

 もちろん彼は私よりも仕事熱心で収入も段違いだったから、私の家賃よりも月々の負担が大きいことくらいは問題外であっただろう。それでも退職と同時に二人とも事務所を構えたので、彼の影響を受けないわけにはいかなかった。私は将来的にはこの事務所を秘密の基地にみたてて、気ままな書斎生活を経験したいと思っていたので、互いの目的が最初から違っていたことは言うまでもなかった。それでも張り合うこともあった。その一つは彼の事務所には簡易ベッドが壁に組み込まれていたこと(普段は壁に収納してあり、使うときに手前へ引き出すのである)であった。それがとてつもなくキラキラ輝いていたことを記憶している。

 彼は時にアルバイトを採用することもあったけれど、基本的には互いに「一人税理士」を自認していたから、忙しいときには徹夜仕事になるかも知れないと言うのがベッド導入に対する彼の言い分であった。それを聞いて、「かも知れないのは私も同じではないか」と思い、それでついつい私も徹夜の可能性を意識せざるを得なくなったのである。だからと言って賃貸マンションにベッドを作り付けることはできない。そこで止むを得ず折りたたみ式の簡易ベッドを入れることで自分を説得した。そうした経過は別稿の「うたた寝のしあわせ」のとおりである。

 ただかくも壮大な仕事に対する熱意にもかかわらず、開業15年を経て私の折りたたみベッドが登場する機会は一度もなかったし、それは彼とても同様であった。ベッドは共にたたまれたまま、いつの間にか書類の置き台(私の場合は単なる物置き)に常態化されたままになってしまっている。

 所在地は違っていたが互いの事務所は地下鉄一本10数分でつながっていたことや、一人で決断しなければならない仕事への不安もあって互いに相談しあう仲になっていった。昼の付き合いはそのまま夜の付き合いでもある。初めのうちは互いの事務所を交互に居酒屋に変身させ、そこから二次会へと繰り出すのが習慣になっていった。だがそのうちに二次会の場所が「ときどき薄野」という状況から、我が事務所から歩いて数分のところにある「琴似の特定のスナック」になることが多くなり、しかもJR琴似駅近くの居酒屋数件にまで馴染みが広がってきたこと、自宅への帰宅ルートが薄野も琴似も余り違わないことなどから、次第に琴似にある私の事務所を一次会にしたほうが便利だと分ってきた。もちろん私の自宅はJR琴似駅から二駅目だったから、そのことに何の異論もなかった。

 そんなこんなでいつの間にか我が事務所は彼との定番の居酒屋に変身し、それがそのまま現在まで続くことになった。時には馴染みのスナックのママさんやホステスなどを開店よりも少し早めに我が事務所に招き、一時間ほど我が手料理で過ごしてからスナックに同伴出勤と洒落るようなこともあった。ただ、多くの場合は彼と二人で事務所で飲みながら、午後7時を過ぎると「これから行くぞ、店開いたら連絡くれ」との連絡するようなスタイルが定番ではあったのだが・・・。

 ただ彼は酒はそれほど強くなく、スナックでは途中でうたた寝するかまたは酒をセーブすることが多かった。カラオケ数曲に興じ、他愛ない繰言を繰り返し、カウンターで数時間を過ごすのが習慣になっていた。彼の帰宅ルートはスナック近くの停留所から22時少し過ぎの最終バス二台を乗り継ぐ方法であったから、それに間に合うようにスナックを出ることになる。少し遅れたときは地下鉄とバス、もしくはJRを乗り継いで自宅近くの駅からハイヤーということもあったようだけれど、基本的に22時を過ぎると間もなくカウンターの腰を上げるのが習慣であった。

 ともあれ15年の付き合いを通じて、一度として22時30分を過ぎてそのスナックを後にしたことはないような気がする。店が少しでも混んでくると少し離れた居酒屋に居場所を代え、新客に席を譲るような優しい二人客であった。カラオケの好みも彼は演歌とフォークなどで私のJポップス系とは異なっていたから、互いの好みが競合することのなかったことも、つき合いが長く続いた要因になっていたのかも知れない。互いにそれほど深酔いするようなこともなく、2〜3ヶ月に一度、二人分同時に入れる二本のウィスキーをちびちび空ける静かな客であった。だからスナックとしてはこれから酔客の増加する時間帯を前に開店早々から付き合ってくれてお愛想する客二人の存在は、それなりに「いい客」の部類に入っていたのではないかと二人で語り合っていたものである。

 このスナックは私たちは別々のルートで事務所を開業する以前、つまり退職前から通っていた店であった。彼の方がどうやら私よりも先に馴染みになっていたらしく、もしかすると開店間もなくからの客だったようである。となると、店との付き合いは退職から今日までの15年を加えるならおよそ20数年にもなるということだろう。もっとも私の付き合いも似たような長さにはなっているのだが・・・。

                                「仲間が死んだ(2)〜ガン告知」へ続きます


                                     2013.12.4    佐々木利夫


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仲間が死んだ(1)
  〜彼との長い付き合い