彼との飲み会は退職直後の月に2〜3度から、15年を経て最近は1〜2度へと多少減ってきてはいるが、これまでただの一回も休むことなく続いていた。それもこれも、互いが健康だったことの証左でもあろう。私は仕事を減らしているので暇はあるのだが、彼は「忙しい、忙しい」を繰り返していて、「晩飯を家で食うことは少ない」と自認していることもあり、また「女房を連れて海外旅行に励んでいる」こともあってなかなか暇を作れなかったようである。それで彼との居酒屋開催はいつも、「今日どうだ、仕事するの嫌になった」とその日になってからの突然の電話がきっかけになることが多かった。もちろん多くの場合当方に否やはなかったことはいうまでもない。

 そんな彼に私から電話したことがある。今年の5月のことであった。そろそろ彼から「今日どうだ」の電話が入ってもよさそうな予感がしていたのだが、なんと私は二回目の脳梗塞で急遽入院してしまったからであった(別稿「脳梗塞が再発した」参照)。医師の診断を受けて即日入院だったので、妻に連絡する以外他の人に話すゆとりなどなかったから、彼にも当然知らせてはいなかった。

 症状は思ったより軽く、「用事があるなら軽い外出くらいならいいよ」と医者に言われたのが入院から三日目の13日(月)であった。ただその日の外出は予行練習みたいなもので、「仕事の段取りなどの調整がついたらすぐに戻れ」との指示だったので、とりあえず事務所へ出て書きかけのエッセイをネットに発表して早々に病院へ戻っただけだった。
 入院はベッドで寝ているだけであり、一回目の脳梗塞入院のときのようなリハビリもない。特に特別な治療もなく、点滴と高圧酸素室への強制収用(別稿「高圧酸素治療体験記」参照)以外にすることもない。退屈しはじめると、一週間ご無沙汰の事務所も懐かしくなり、それに次回発表のエッセイの準備もしていないのが気になってきた。それに彼に「しばらく飲み会延期」の連絡もしなければならないことに気づいた。それで19日日曜日に「自宅→事務所」のコースで、二度目の外出をすることにした。

 その時始めて事務所から彼に、「二回目の脳梗塞で5月10日、手稲の病院に入院した。症状は軽く、特に異状もないので心配不要。入院は二週間の予定なので、飲み会はしばらく延期してくれ。なお、家族以外には誰にも連絡していないので他言は無用だし見舞いも遠慮する」との電話を入れた。とりあえず私の体調に何の異状もなかったので、まさにいつもの飲み会の延期以外に伝えることはなかったのである。

 その時の彼の反応が少し変だった。それが彼の私に対する最初の自分の死の予告であった。彼の電話での声は、私の体調への気遣いとは少し違っていた。私の入院は分ってくれたのだか、彼の声は「とんでもないことになった。電話では簡単には話せない。すぐにファックスを送るから読んで欲しい」だったのである。聞いてすぐは、顧問先から難しい仕事を押し付けられたのか、それとも仕事上のトラブルでも生じたのだろうかとの思いが一瞬頭をよぎり、電話切ってファックスの受信を待つことにした。やがてA4三枚が送られてきた。どうでもいいことなのに途中で受信する用紙が切れてしまい、そのセットにもたもたして手間取ったことをなぜか思い出す。

 送られたファックスの1ページ目には「カウンセラー記録」との記載があり、病院名と患者名欄に彼の名前、そして「肺がん」の文字が読み取れた。咄嗟にはなんのことか分らなかった。まだファックスを読み終えていないうちに、彼から再び電話があった。少し前から咳が止まらないので近くの病院に行ったら、大きな病院で診察を受けろと言われた。それで行ったところ、肺がんでの余命宣告を受けた、残り1年か1年半の寿命だと医者から言われた、・・・悲壮感など特にない淡々とした彼の声であった。痛み止めはするけれど抗がん剤治療などはやらないつもりだ、彼の話は続く・・・。
 カウンセラー記録は5月16日付になっている。今日は19日だから、彼が医者からここに書いてある宣告を受けたのは3日前のことになる。そしてその3日間で彼は今後の自らに対する治療方針を決めたのだろう。それが抗がん剤は使用しない、放射線治療もしないとの覚悟であった。

 だが私はこのファックスを今見ているのである。まだ読み終えていないし、書かれていることの片鱗も私の頭に入ってはこない。「ちょっと待ってくれ」という間もないくらい、彼は自分の覚悟を話し始める。その口調は私にではなく、あたかも自分に対する説得ででもあるかのようであった。私は何かを言うべきだと感じていた。なにかとても教訓的で立派なこと、慰めるというのではなく「もっとガンに立ち向かう」ようなことを示唆する気の効いた会話をすべきだと私の頭は囁いていた。

 だが混乱した頭では彼に何をいう術もなかった。ただ「言ってることは分かった。だが『じたばたする』ことも考えて欲しい」と伝えただけであった。それは彼の今のがん告知に関してと言うよりは、以前から彼とは生きることについて何度か会話したことがあって、その時の記憶から出た話である。それはあくまでも抽象的な酒酌み交わしながらの老人同士の繰言ではあったのだが、私は日ごろから「人はじたばたするものさ、それが人間らしさというものなのさ」みたいなことを思い、また彼に話もしていたからであった。だからその思いを繰り返しただけのことであったのかも知れない。それは仮に小さい確率であったとしても生き延びることに挑戦してほしい、との思いが私のどこかに残っていたからでもあったのだろう。

 何を言ったらいいか分からないままに電話は終わった。私は受信したファックスを持って入院先の私のベッドへ戻った。ファックスを繰り返し読む。「肺がんが心臓や首の周りのリンパへも転移している。ステージは3B、間質性肺炎も併発している、外科的手術は無理、抗がん剤治療・放射線治療をやりたいが、それで寿命が延びるかどうか分からない、何もしないと余命は一年〜一年半、抗がん剤で半年くらい延ばせるかも知れないがその保証はなく逆に短くなることもある、間質性肺炎には治療方法がなく手術や放射線治療で逆に悪化し命にかかわる可能性もある、・・・」などの言葉が切れ切れに続いている。「家族と相談して下さい。5月23日に方針を決めましょう。その時点でできる最高の治療を組み立てていきます」と書かれたファックスの文字だけが、たった一つの救いの言葉になっている、そんなカウンセリング記録であった。

 病室に戻った私は、看護師に肺がんや間質性肺炎について書いた本はないかと尋ね、貸してもらった「ナーシングセレクション1、呼吸器疾患、学研」を漁るように読んだ。しかしそれが何の役にたつものでもなかった。やがて呼吸が苦しくなり在宅でも酸素吸入が必要になる、そんな程度の知識が私に増えたくらいことでしかなかった。数日後の24日(金)に私は退院したが、彼が昨日23日にどんな治療方針を決定したのかどうか気になるばかりであった。

 数日後に彼の状況を確認するため、飲み会に出てこられるかどうか電話で誘った。彼の返事をリトマス試験紙として利用するための姑息な手段であった。ところが意外にも彼は普段と変わらずに元気な声であった。すぐに飲み会への参加を快諾してくれた。5月28日のことである。そして午後6時、いつも通りに彼は私の事務所に現れた。咳が抜けないと言っているし、そう思って気にかけてみると確かに咳き込むことがあるけれど、それ以外はとくに具合が悪そうなところも見えず、瘠せてきたような気配も感じられない。小太りの体格はあい変わらずで、逆に「腹が出てきたな」と思わせるくらいであった。

 この事務所居酒屋での話である。彼は毎年人間ドックを受けているが、その検査結果によると2〜3年前から腫瘍マーカーの数値に異状が認められ、しかも年々高くなっていたそうである。糖尿病で通院している以外特に目立った病気のないことを自他共に認めている彼にとってみれば、検査数値の多少の基準値超えはそれほど気にならなかったのだろう、無視したそうである。恐らく医師からは精密検査を勧められたのだろうが、その気にならなかった彼の思いが悔やまれる。それにしても腫瘍マーカーの異常値である。医師ももう少し脅迫めいた精密検査を勧められなかったのだろうか。早期発見が必ずしも治癒につながるものではないからこれで良かったのだと彼は話すが、どうにも割り切れない思いが残る。

 いつも通りに馴染みのスナックへ行って彼はガン告知を受けたことを告白した。見かけは普段と変わらずに薄い水割り、カラオケの定番、22時頃店を出るなどのパターンもいつも通りで、告白を聞いたママも驚いてはいたものの、半信半疑というのが実感であった。その後も事務所居酒屋、そしてスナックへのルートは変わらずに続いていた。彼の容態も特に変化はなかったように記憶している。

                                            2013.5.16〜5.28の記録

                         「仲間が死んだ(3)〜ガンとの闘い」へ続きます(作成中)


                                     2013.12.5    佐々木利夫


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