月が替わって6月20日、年に数回顔を合わせている苫小牧在住の共通の友人と三人で、いつも通りに私の事務所での居酒屋、そしていつものスナックを繰り返すことにした。特に変わった風はなかった。苫小牧の友人は始めて彼の病気を聞いて驚いたようだが、本人の態度に変わるところはなかった。
 彼から今後の治療について話があったのは、7月2日の電話が最初であった。これまで緩和ケア以外はやらないと話していたのが、陽子線治療の話しが出てきた。

 私はこの治療名を聞いたことはあったけれど内容はまるで知らなかった。彼によると放射線治療の一種ではあるが、通常の放射線治療とは違って患部だけのピンポイント照射になるので、周辺部への放射能の影響が全くないのだそうである。ただこの設備は全国でまだ7〜8箇所にしかなく、北海道には来年設置されるらしいが今はない。それで一番近い福島県郡山の病院で治療を受けるとのことであった。
 一回の照射は数分なので日帰りで可能だが、六週間ほど連続して通院しなければならないことから、ホテルかウイクリーマンションを利用するとの話であった。健康保険は効かないが先進医療保険に二本も入っているので自己負担の心配はまったくなく、既に保険会社とも打ち合わせ済みであると元気な声である。最近の電話で咳き込むのが増えたようで少し気になっていたこともあり、彼の気持ちが私の思う「じたばた」に僅かでも近づいてきているのかも知れないと、内心ホッとしたことを覚えている。

 郡山へ行く日が7月11日に決まったとの電話があったのは7月6日の昼だった。だが照射のためではなく、照射するかどうかを確認するための一泊の検査入院だという。この入院でOKということになれば、7月22日から六週くらい郡山に滞在するので、8月一杯は付き合えなくなると言う話であった。病院のベッドが空いていないので通院になる、自炊は嫌いなのでホテルにしたい、毎日暇になるので困った、土・日は照射がないのでその気になれば札幌へ帰ることもできるがそうもいかないだろう、などとすっかり陽子線治療に乗り気の気配がうかがえる。電話なのでそれぞれの事務所で別々に通院予定の病院のホームページを開きながら、行ったらもう帰ってこれないかもね・・・、などとジョークを交わしつつ、次回の飲み会の話になるなど、治療効果に期待していることが分る。咳が以前より少し多くなっていることが気がかりだ。

 いつもの居酒屋を開いたのは翌々日の7月8日であった。彼から「郡山行きでしばらく飲めなくなるかも知れない。今晩暇か」の電話があり、「体調は大丈夫か」の私の問いかけに「元気、元気」を繰り返していた。ただ郡山行きを控えて顧問先を引き受けてくれる税理士を探しているのだが、なかなか思うような候補者が見つからないと少し嘆いていた。
 酒の肴の用意は開催する事務所の役割である。私が作るメニューは鍋料理が多いのだが、今日は久しぶりに趣向を変えて煮込みハンバーグ、かまぼこの刺身、冷やっこ、マカロニサラダなどである。一次会は1000円会費、スナックは割り勘が互いの了解事項である。スナックでいつもより機嫌がよくカラオケにも興じていたのは、間もなく受ける陽子線治療の効果に期待していたからなのだろうか。

 郡山から帰ったであろう数日後の7月16日に電話があった。検査のため11日に一泊してきた、22日からの長期照射の手続も済ませてきた、ところが帰った翌13日に担当医師から電話があって「検査した結果ガンが大き過ぎて陽子線治療は難しい」と言われた、それで22日からの郡山行きはなくなった・・・、早口の彼の電話はなんとも非情な内容を伝えてきた。口調は元気だったが、どこか力を落としているようなそんな気配のする電話だった。

 7月19日、前回の事務所居酒屋からまだ10日ほどしか経っていないにもかからわず、しかも昼間なのに彼のほうから事務所を尋ねてきた。昼に尋ねてくるのは珍しい。今晩やらないかとの話しであった。ただ今日は、いつもの事務所居酒屋から馴染みのスナックというスタイルを変えて、久しぶりに琴似駅近くの馴染みの居酒屋2件に直行し、はしごするのはどうかとの誘いであった。ふと「馴染みの店との別れを意識しているのかな」、そんな気配の感じられる誘いであった。
 「酒が飲めなくなった、昨日の宴会ではほんの少し飲んだだけなのに具合が悪くなった」、会った居酒屋で彼が放った最初の一言である。2件をはしごし、結局その日の彼はビールをグラス半分くらいにしか手をつけなかった。病気の進行していることを否応なく分からせられた一日だった。

 そしてその時に出た話が「フコイダン」(もずくやわかめなどのヌルヌル成分のようなものらしい)を飲む治療法であった。健康食品の部類に入り一日分が一万円近くにもなる高額な飲み物だが、ガンに効くとの効能で売られているらしい。効き目はどうか分らないが、郡山の医師からの勧めもあるし、ネット検索すると溢れるほどヒットするので試してみるつもりだ、との話しであった。

 その頃からである。彼の治療に対する意気込みが少し陰ってきたように思う。「4万円以上もする瓶詰フコイダンを一本買って一週間ほど飲んでみたがもう止めた」との電話が入ったのは間もなくであった。健康食品にありがちな、効能の誇大宣伝と「医薬品ではありません」との言い訳じみた言葉、そして「効果は服用した人の個人的な感想です」みたいな責任逃れの表示に、胡散臭ささを感じたことによるものらしかった。

 それでも彼は治療を諦めることはなかった。8月8日の彼からのメールには、「新しい医師を紹介された。8月12日に検査してもらい、抗がん剤治療を受けるかどうか命がけで決めることにした」とあった。私は「命というのは『私の鉛筆』と言うのとは違って、私と命とを切り離すことはできない。自分のものであって自分のものではない。じたばたするのが自分に対しても、周りの人に対してもある程度の義務ではないか」と、どこか中途半端な返信をするしかなかった。そして翌9日にいつもの飲み会の誘いが彼からあった。「無理するな」とは言ったものの、「大丈夫」との返事につられていつも通りやることにした。

 8月9日、いつものパターンで居酒屋が始まった。ガスライターの充てん用のボンベみたいな小型の酸素ポンベを2本持参しての飲み会であった。抗がん剤治療に踏み切ることの迷いであるとか、また「免疫細胞治療」という方法などの話しになった。札幌で免疫細胞療法を実施している病院のリストをネットで調べて、そのプリントを渡すなどどうしても話題が病気になってしまうのが残念だ。いつものスナックへ行く道すがら、「息切れがしてお前の歩くのについていけない」、「地下鉄の階段上るのに息切れがする」などと話し、カラオケも途中で二度ほど咳き込んで中断した。病状の進んでいることが否応なく分る。

 明日(8月10日)から一泊で、孫も含め一家10名を集めて近郊の温泉に一泊するのだそうだ。遠隔地の孫まで呼んでの旅行には、家族との別れの意識があったのだろうか。誰もが彼の死を予感しつつ、しかもそうした素振りは少しも見せることなどないだろう家族団らんの一夜である。その夜を彼はどんなにか誇らしく思っただろうし、またどんなにか口惜しくも感じたことだろう。

 9月に入って11日、一ヶ月ぶりのいつもの飲み会である。特に瘠せてきた風もなく、外見からは普段と変わらないように見えた。事務所居酒屋での今日の話題は、もっぱら今流行の近藤誠のガンに関する著書に関してであった。何冊か読んだらしく、「ガンには『ガン』と『ガンもどき』があり、俺のガンは転移しているので真正のガンである。だからどんな治療も効くことはないし、逆に治療がガンの悪化を招く場合がある。だから今のままで治療はしないことに決めた」ようである。それに8月12日に検査した医師が抗がん治療に乗り気でなく、治療しないと告げたら「自分のことのように喜んでいた」ことも影響しているようだった。この頃から彼の「治療しない」との気持ちが確信にまで進んだような気がする。そしてそれはどこかで医師不信の思いともつながっているように感じた。

 そして「医師は治せない病気を前にすると、患者に対して非情になる」(別稿「余命宣言に思う(1)」参照)こととも無関係ではないように私には思えた。私は、郡山の陽子線治療を拒否した医者と放射線治療はやらないと伝えたことを喜んだ医者の二人に、彼はどこかで裏切られたような気持ちを抱いたのではないだろうか。「効果はないかも知れないけれど、僅かでも助かる確率に挑戦してみましょう」、そんな声をかけてもらいたかったのではないかと思ったのである。

 睡眠薬なしには夜中に呼吸が苦しくなってくる。咳が止まらず咳止め薬が手放せないなどの話しもしていた。スナックではいつものカラオケに興じていたが、何度か咳き込んで中断した。更に症状が進んでいるのかも知れない。

 そして更に一ヶ月ほど経って、10月10日に飲み会の誘いが彼からあった。事務室のドアを開けて入ってきた彼の姿を見て、この一ヶ月での体調の変化に驚く。簡易なポケット型の酸素吸入は以前と同じだが、黙っていても呼吸が苦しそうだ。そして入るなり「今日は、酒ダメ、歌ダメだ」と宣言する。そのつもりで今日はマイカーで来て近くの駐車場へ停め、歩いて数分の距離なのにそこからこの事務所までハイヤーを使ったのそうだ。歩いても寝ても呼吸が苦しく、椅子に腰かけているのが楽なのだと言う。私の事務所のトイレに行くだけでも、ハーハーと息苦しそうである。一段落していつものスナックに行くことにしたが、そこへもハイヤーである。始めてのウーロン茶だけによるスナックになった。間もなく在宅酸素吸入の訓練のために2〜3日入院するとも話していた。
 その時ふと、もしかしたらこれが彼との私の事務所での最後の飲み会になるのではないかと、ちらりと感じた。そうしてその予感はその通りになった。

                                       6.20〜10.10までの記録

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                                     2013.12.7    佐々木利夫


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